【平坂純一】政治芸術家・秋山祐徳太子さんを偲ぶ

ことしの4月3日、前衛芸術家で政治活動家の秋山祐徳太子さんが老衰で亡くなった。享年85歳。当メルマガ読者には「西部邁ゼミナール」の相手役でご記憶の方も多かろうと思う。彫りの深い立派な顔立ちはどこか悲しげだった。スイッチが入ると江戸訛りで垂直的にまくし立て、時にドイツ軍歌を原詩で唄う。師の不思議な相棒だった。あの方が一体何者だったか若人には伝わっていないように思う。彼の足跡を辿りながら、保守と強く接近する彼の人間観を記したい。
氏の政治芸術史は自伝『ブリキ男』に詳しい。1935年、東京の日暮里生。祐徳が本名である。ルーツは博多にある。博多っ子で逓信省勤めの父と中央大法科卒の兄を早くに亡くされ、母子家庭だった。「歌舞伎座の裏」の新富町で、母はおしるこ屋を営んでいた。戦時下や戦後すぐの描写は卓越していて、遊びの達人そのもの。東京湾の舟へのロマン、遊び道具の製作や自転車の改造、この頃からブリキ(つまりトタンである)に想像力を膨らませる。ポップアーティストの下地は戦前の東京の下町にあった。
また、祐徳少年は生でマッカーサー元帥を見ている。

「ふと、第一生命ビルにあったGHQ本部のほうを見ると、玄関に人だかりがしている(中略)仇敵マッカーサーめ!小さな拳銃でもあれば、この至近距離からなら射殺できるかもしれない。そうすれば、小さな英雄として、大和魂を世間に示すことができるだろう。本気でそう考えた」(同書・原文ママ

「神たる父」のない男の子の想像力は、一線を越える時がある。「母を思ってやめた」と啖呵切ってもいた。
配給制で材料無く、おしるこ屋たたむなど家計が傾く述懐も多いが父の年金もあったのだろう、浪人の末、武蔵野美術大学彫刻科に合格。東京女子大生への憧れで苦悶する辺りはブルースである。ちっとも女性に縁がない美男子だった。芸術家への道を開くと思いきや、学生運動に没頭、砂川闘争に参加すると西部邁先生の年長世代の活動家としての顔が浮かび上がる。また、マルクスに与するのでなく、反米の表出である点で師と思想的合流を果たす。「粘土いじりより、自治会長が性に合った」という。この時点で後の盟友・赤瀬川原平も顔見知りだった。大学で講演会を開けば、花田清輝、岡本太郎、羽仁五郎、大江健三郎にオファーを試みるなど、知的な意欲が高い。「同じ業界の人間と限られた言葉で付き合うのが嫌い」は師と共通する社交観とも述べていた。

ブリキ製で2mもある「巨大なバッタ」が卒業制作だったから恐れ入る(写真あるが、とても気持ちが悪い)。この時点で秋山祐徳太子の原型はできている。まず、ある重要な政治状況に身をもって突入すること。また、知的分野に距離を詰めつつも、それらを徹底して茶化すこと。これら芸術的飛躍による政治介入の手法は極めてダダイズム的である。この頃から使い始めたらしい通り名がそれを表わす。秋山祐徳太子は「聖徳太子」から拝借したというが、右翼に詰め寄られても「明太子にも文句を言え!」と煙に巻いた。この手のジョークが多く、危なすぎて書けない。
彼のこの「ポップ・ハプニング」なる芸風が結実した事件が二つある。一つが68年の反大阪万博の芸術運動「万博破壊共闘派」だ。この辺りの記述は飛び散っていてよく理解できないが、「旧文化体系を象徴化する儀式(=万博)への蜂起」と銘打ちつつ、内実は荒唐無稽である。集団でのブリーフ一丁、ゲートルでベッドを昇り降りするパフォーマンス。極め付けは、京大教養学部本館のバルコニーに陣取り、なんと当時の武器・ゲバ棒の代わりに「陽物」を露出している(…ミシマ事件は二年後である)。当然ながら逮捕されるも不起訴処分。母は「大したモノを見せてないから、堂々と捕まれ!」と叱咤したという。この母子の関係性は強く、性的な歪みさえ肯定する母の強さがなければ、芸術家としての大成はなかったろう。

そして、75年の東京都知事選。当時は「泡沫候補」なる差別語があった。マスコミは「左派の美濃部亮吉と右派の石原慎太郎の一騎打ち」と喧しく、それを逆手にとって割って入れば大いに目立つ、そんな寸法である。「保革の谷間に咲く白百合」のポスターは私も都美の展示で見ている。とても愛嬌がある。
選挙戦最終日の新宿東口は狂騒と熱狂に包まれた。美濃部と石原の陣営の間になんとトラメガ片手に「青年の騎馬」(運動会のアレ)に跨がった秋山さんが現れる。過激派の若者を束ねて、哄笑の渦を起こすその姿はトリックスターそのもの、芸術的な勝利であった。しかし、このダダ的手法ですべてを茶化す芸は、舞台を大人の世界に移した限り、同じことをやり続ける人ともいえるだろう。

1985年には『通俗的芸術論』を発表。この頃にはブリキ芸術家の地位を確立、各地の美術館に展示、保存されている。Googleで一先ず作品をご覧なって欲しいが、ここまでの活動が理解不能であっても、作品は理解可能かもしれない。「バロン」の作品群には英雄的で男性性に憧れる、父なしの純朴な少年の心持ちの表象に思え、またトタンの銀に輝く「富士山」も美しい。

私の個人的な秋山祐徳太子体験は2つある。
今から8年前、浅草・木馬亭。私が会社員生活と西部邁塾が終幕した倦怠感で、ある落語芸能集団に属した頃である(厳密には「落語」の言葉は落語協会に所属する落語家のみが使える用語)。その集団は洋画家、本職の落語家、作家、詩人、ストリッパー、編集者等、多様な異端者で構成される。そこに秋山さんが「真打」として参加された。どこからか仕入れた立川流の紋付を秋山さんに着せたら、寸法が合わず苦い顔をされていた。私も悪ノリで何席か演じた。楽屋では博多、母子家庭、西部邁など共通項で意気投合させて頂いた。客席には60年安保闘士・唐牛健太郎夫人、興行師・康芳夫氏、ダダイスト・山本桜子氏、一水会某氏、もっと著名人いたかもしれないが何かが迸っていた。

秋山さんの用意した噺は大盛況だった。「老夫婦の元に芸術家を志望する青年が現れて、その青年のダメ出しする問答」のネタは一見して落語の与太とご隠居的だが、そのネタの構造は複雑怪奇。ネタの途中に脈絡のないエピソードトークが切れ味よく挿入され、あるいは違う人格がネタに登場、それらを総評する秋山祐徳太子がいる…芸術家の「落語」は別の何かだったのだ。「着物が苦しい」(バカボンのようにつんつるてんだった)との理由で二度は参加して頂けなかったが。この「老夫婦と青年芸術家」をモチーフにした噺は秋山さんのハプニング芸への情熱を知ると同時に、生涯独身を貫かれた一抹の寂しさも垣間見られた。
次にお会いしたのは、西部邁先生を囲む新宿での宴だった。宴も酣、私は手元に忍ばせていた芸術雑誌『美術手帳』94年6月号のカラーコピーを配った(祐徳vs師の20頁の対談!)。師はこの書の呼気に喜ばれると「秋山さんを呼ぼう!」の鶴の一声、buraにて秋山さんが合流される。「ヨッ!こないだはどうも」と笑顔で挨拶下さった。生で見る“名コンビ”に舞い上がりつつ、恐る恐る「この書にお二人で落書き頂ければ」と提案すると、秋山さんは「残るものは書かない」と拒否された。師は私を気遣うように「もし書くとすれば、『秋山・前衛 西部・後衛』と記したかった」と仰せだった。
この、前衛[vanguarde]と後衛[rear guard]—その心はなんだろうか。辞書には前衛の対義語は保守[conserve]ともある。一体、前から後ろから「何を衛(まも)る」のか?西部邁と秋山祐徳太子に共通する答えは94年の同書の対談の中にある。「画家崩れのヒトラーより、ムソリーニが好き」で意気投合した話、師が「芝居や美術展に行くことはナルシシズムの放射能を浴びに行くようなもの」と断定する件…おそらく新宿文壇バー「風花」経由か、聞き手の美学者の谷川渥氏がいなければ成立しない対談だったろう。

そして「秋山流日本文化私観」は伊勢神宮に本質があるという。
お伊勢さんはだれでも行くポップなところとして落語の世界にはあった。ところが伊勢神宮というのは別な伊勢神宮があると思う。(中略)外宮はポップです。しかし内宮には玉砂利を踏みながらずっと行くとお社がある。ただそれだけのこと。ところが全体を見ると、その横に五十鈴川が流れていて、そのせせらぎと自分が踏んで行く玉砂利の音を聴きながら(中略)要するに伊勢神宮がコンセプチュアル・アートみたいなのね」

この伊勢神宮の内宮体験への感銘は、物質と自我に固執しないご自分と照応していた。20年に一度の遷宮を「ダダイズム的!」とすら感じたようだ。この「大事な観念と価値観を保守するための破壊」に師は「バーク的」と付言してもいる。物質が滅びても尚、残る精神があるとするなら―秋山さんがブリキ(耐久性は皆さんの常識の範囲)に賭けた意味も見えてくるかと思う。そして、名やモノを残す気もない彼が私の私物にサインしてくれる訳もないのである(笑)。西洋近代の自我から離れるスタイルは、男爵を気取ることや近代芸術よりも日本の美との接合において顕著になる。

これに呼応して、師は秋山さんにして「風刺画家・ドーミエの晩年に似たり」と評す。これは過激な政治活動に疲れたドーミエが『ドンキホーテ物語』に回帰、突如かの小説の絵を描き始め、汎ローマにロマンを見出した故事からだろう(『大衆への反逆』の表紙も想起されたし)。
秋山さんすら例外でない芸術家一般の「自己愛」(先の放射能的なもの)と、秋山さん特有の「自己犠牲」の精神を師は惜しみなく讃えている。

(秋山さんの)パフォーマンスも、酒場のお喋りも、よくいえば「おとぎ話」、悪く言えば「でたらめ」ですよ。それは結局、保守思想も同じなんです。昔の、バカな保守派は「天皇制を守ります」とか「能、歌舞伎を断固擁護するために金を出します」と(中略)守ったら、歌舞伎座は農協団体のレクリエーションの場になる。そうなった時に、保守と云うのは『俺はドン・キホーテになって、このあぶない綱渡りをして見せるのだ。上手くいったら拍手喝采をどうぞお願いします!』ということなんですね。
この対談における「西欧的観念の美に対する距離」と「自己愛と自己犠牲」は、二人の衛るべき価値が「日本」にあることを示唆しないだろうか。この対談を経た95年には、師と共著『ポップコン宣言』が上梓。時が立ち、ゼミナールでの共演に繋がる。
今日のアート界はどうだろう。去る「あいちトリエンナーレ」でもある種のハプニングがあったらしい。昭和天皇をモチーフにしたそれは秋山さん的な愛嬌とツッコミの余地が欠落していた。何よりアート(技術)的に拙い作品群では見るべき価値もない。秋山さんの人的ハプニングは笑えるが、今の構造的ハプニングはまったく洒落にならない。補助金を垂れ流して、せいぜい地方紙を埋めるだけの価値しかない芸術や演劇はこの世にない方が芸術の発展に寄与するだろう。企画者の津田某氏はアートの本質から、あるいは日本の右をからかうセンスからも大きくズレている。
私如きでは秋山さんを語ることも憚られるが、今回は思い切った。私の青年時代に三度ほど氏の展示を見ており、西部先生とお付き合いがあると聞いた時は「自分も鼻が利くらしい」と思えた。あの日、buraでお二人が手に取って微笑んでくれた『美術手帳』には、私の手書きで「前衛と後衛」と殴り書きしてある。お二人の笑みが私の脳裏で絶えぬよう、衛るべきものを見失わず生きていきたい。Bravo!さようなら、僕らの男爵さん。心からご冥福をお祈り申し上げます。

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