[奈文研コラム]タンロン皇城遺跡の瓦
ベトナムの首都、ハノイの中心部にあるタンロン皇城遺跡は、1009年に建国された李朝以降、19世紀初めまでベトナムの諸王朝が都を置いたため、各時代の重要な遺跡が重なって残っています。発掘調査では、李朝より古い大羅(だいら)期の建物群も見つかっており、唐の安南都護府(あんなんとごふ)の施設と考えられています。
2012年頃に、私はタンロン皇城遺跡出土の瓦を観察する機会を得ました。現地の研究者に大羅期、李朝やその後を引き継いだ陳朝などの瓦を説明してもらったのですが、大羅期と李朝・陳朝では瓦の特徴が大きく異なっていたことが印象的でした。大羅期の瓦は、文様や瓦の形が中国、そして一部は唐の都、長安を含む中国北半部の影響を感じました(写真1)。一方、李朝・陳朝の瓦は装飾が多く、かなり独特なものでした(写真2)。
また、いずれの時期の軒瓦も、文様を刻んだ笵(型)に粘土を押し当てて文様を付けるのですが、笵の素材が異なります。大羅期の軒瓦は陶製笵、李朝・陳朝の軒瓦は木製笵でした。中国では、笵の素材に地域性があり、おおざっぱに分けると陶製笵は中国の北半部に、木製笵は南半部に多く見られます。このほか、瓦の基本的な作り方も、大羅期の瓦は中国北半部と、李朝・陳朝の瓦は一部に中国南半部と共通する特徴が見受けられました。
そもそも瓦は建築部材の一つ。瓦の形状や文様、装飾の大きな変化は、その瓦を用いた建物全体のスタイルの変化を強くうかがわせます。大羅期には唐の支配下にあったので、中国風の建物が建ち並んでいたことでしょう。李朝・陳朝は中国王朝の支配から脱したベトナム人が築いた王朝であり、いずれも民族性の強い王朝とされています。それらの都の中心的な建物は、中国とは異なる、独自性を強く主張したものだったのかもしれません。