非自明な保存量がもたらす緩和の遅れ ―孤立量子多体系における熱平衡化の理解の深化に期待―

【概要】
周囲の環境と相互作用をしない孤立した量子多体系※1 がどのように熱平衡状態※2 に至るか(熱化するか)という問題は、現代の量子物理学および熱・統計物理学における重要なトピックの一つとなっています。そこでは特に、熱化のメカニズムの理解のために、逆に熱化しない非エルゴード系と呼ばれる系が注目され、盛んに研究がなされています。そのような非熱化の振る舞いをもたらす機構として、非自明な保存量が存在することで熱化が妨げられる、ヒルベルト空間断片化と呼ばれる機構が近年注目を集めています。
本多寛太郎 京都大学理学研究科博士課程学生(研究当時、現:同博士研究員)、高橋義朗 同教授らの研究グループは、段下一平 近畿大学理工学部理学科物理学コース教授らの研究グループと共同で、光格子と呼ばれるレーザーで形成された周期的な格子中に極低温の原子気体を導入した系を用いて、ある特殊な粒子配置の初期状態からの緩和の遅れを観測しました。特に、この緩和の遅れがヒルベルト空間断片化に起因することを示す非自明な保存量の存在を初めて確認しました。本成果は、孤立量子多体系の熱平衡化に関する理解を深化させ、理論と実験の双方からの更なる研究を促進すると期待されます。
本研究成果は、2025年6月6日に米国の国際学術誌「Science Advances」誌にオンライン掲載されました。
【背景】
淹れたてのホットコーヒーも、時間が経つとやがて冷めてしまいます。これは、コーヒーやカップが周囲の環境と相互作用をして、熱のやり取りをするためです。では、周囲の環境への粒子やエネルギーの出入りがなく、かつ、量子力学で記述されるようなミクロな系では、どのようなことが起きるでしょうか? これが、本研究のトピックです。
孤立量子多体系、すなわち、周囲の環境との相互作用のない量子多体系の時間発展(ダイナミクス)は、シュレーディンガー方程式によって微視的に記述されます。この時間発展方程式は、時間反転対称性と呼ばれる性質をもち、あるダイナミクスに対して時間の向きを反転したダイナミクスも起こりえます(可逆性)。一方で、系の大域的な振る舞いを記述する熱力学によると、系は不可逆性をもち、非平衡な状態は熱平衡状態へと緩和していきます。このように、可逆性と不可逆性という相反する性質をもつように思われる孤立量子多体系のダイナミクスについて、可逆な時間発展から生じる不可逆性の起源を、量子力学のみを用いて探ることが試みられています。これは、「孤立量子多体系の熱平衡化の問題」として知られています。
この問題に関しては、系の熱化のメカニズムの理解のために、逆に熱化をしない非エルゴード系と呼ばれる系が盛んに研究されています。そのような非熱化の振る舞いをもたらす機構は複数知られていますが、近年特に注目されているものとして、ヒルベルト空間断片化と呼ばれる機構があります。この機構においては、対象とする系に応じて決まるある非自明な物理量が保存量となる、つまり、ダイナミクス中でその物理量の値が変わらない、という制約が系に課されます。その結果、初期状態から遷移する先の状態が、取りうるすべての状態(系の粒子数に対応するヒルベルト空間※3 中の全状態)のうち、この制約を満たす少数の「似たような状態」へと限られてしまいます(断片化されたヒルベルト空間内でのみ状態が遷移する)。そのため、初期状態としてある非平衡な状態を用意した場合に、系がダイナミクス中であたかも「初期状態の記憶を保持し続ける」かのように振る舞い、熱平衡化が妨げられるということが起こりえます。
このヒルベルト空間断片化については、理論研究のみならず、光格子中に極低温の原子気体を導入した系などを用いた実験研究もこれまでなされてきました。なお、この光格子系は超高真空槽内に存在するため、周囲の環境との相互作用が十分に小さい理想的な孤立系とみなすことができます。そして、非平衡な初期状態からのダイナミクスにおいて、非熱化の振る舞いが実際に観測されています。一方で、ヒルベルト空間断片化を引き起こすと理論的に考えられる保存量が、ダイナミクス中で実際に保存しているかについては、これまで報告例がありませんでした。
【研究手法・成果】
本研究では、孤立量子多体系の熱平衡化について調べるプラットフォームとして、格子点(原子が捕捉される場所。サイト)が一列に並んだ光格子中に極低温のボース原子※4 気体を導入した、一次元光格子系を用いました。そこにおいて、初期状態として「原子が1サイトおきに配置され、かつ、中央付近では1サイトに2つの原子が入っており、端の方では1サイトに1つだけ原子が入っている」という、原子の配置に偏りのある非平衡な状態を用意しました(図1参照)。そして、光格子の各サイトを区切っている障壁(ポテンシャル)の高さを瞬時に下げるクエンチと呼ばれる操作を行うことで、原子がサイトの配列方向に動けるようにし、そのダイナミクスを調べました。
<緩和ダイナミクスの測定>
はじめに、サイト列を2サイトごとに区切った時の左右サイト間での粒子数のインバランス(図2参照)のダイナミクスを測定しました。ここで、粒子数インバランスの値は熱平衡状態において0となり、系の平衡度合いを測る指標として用いられます。本研究では、上述のように初期状態において1サイトに2つの原子が入ったサイト(この2原子をまとめてダブロンと呼びます)と1つだけ原子が入ったサイト(この1原子をシングロンと呼びます)が両方存在しています。そこで、系のダイナミクスの詳細を調べるために、シングロンとダブロンのそれぞれの粒子数インバランスを、レーザー光を利用して分離して取得する手法を開発しました。図3に示した結果は、同じサイトにいる原子同士が強く反発する強相互作用の状況下での、粒子数インバランスの典型的なダイナミクスです。ここにおいて、ダブロンの粒子数インバランスの緩和(値の減少)がシングロンに比べて遅くなる振る舞いの観測にまず成功しました。この結果は、この系において理論的に予言されていた、ヒルベルト空間断片化による非熱化の振る舞いと合致するものです。
<非自明な保存量の存在の確認>
次に、ヒルベルト空間断片化を引き起こす物理量が、ダイナミクス中で実際に保存しているかを確認しました。今回の系では、強相互作用の状況下において、シングロンとダブロンのそれぞれの原子数が非熱化を引き起こす非自明な保存量となることが、理論的に指摘されていました。図4に示した結果は、図3の測定と同じ条件下での、シングロンとダブロンの原子数の割合のダイナミクスです。ここにおいて、各原子数の割合がほぼ一定となっており、ダイナミクス中で保存していることが分かります。この結果は、図3で観測されたようなヒルベルト空間断片化に起因した遅い緩和の最中に、その要因である非自明な保存量の存在を観測によって実際に確認した、初めての例となります。
【波及効果、今後の予定】
本研究では、ヒルベルト空間断片化による非熱化が理論的に予想されていた系において、実際に非平衡な初期状態からの緩和の遅れを観測し、特にその原因となる非自明な保存量の存在を確認しました。今回の研究では、比較的短い時間内(シングロンが隣のサイトに動く時間の10倍まで)でのダイナミクスを調べていましたが、より長時間のダイナミクスにおいてどのように緩和していくかを調べることは今後の課題の1つと考えています。また、本研究で用意した特殊な粒子配置の状態を用いることで、ヒルベルト空間断片化とは別の機構による非熱化の振る舞いを調べることができるという理論提案もあり、こちらも今後の研究の方向性の1つです。本研究成果が、孤立量子多体系の熱平衡化の問題に関する理解を深め、理論と実験の双方からの更なる研究を促すことを期待します。
【研究プロジェクトについて】
本研究は、JSPS 科研費(No. JP17H06138, No. JP18H05405, No. JP18H05228, No. JP21H01014, No. JP22H05268, No. JP24KJ1332)、JST 戦略的創造研究推進事業(No. JPMJCR1673, No. JPMJCR23I3)、文部科学省 光・量子飛躍フラッグシッププログラム Q-LEAP(No. JPMXS0118069021)、JST ムーンショット型研究開発事業(No. JPMJMS2268, No. JPMJMS2269)、JST 創発的研究支援事業(No. JPMJFR202T)、JST 先端国際共同研究推進事業(No. JPMJAP24C2)(特に理論グループとの共同研究に利用)の助成を受けて行われました。
<用語解説>
※1 量子多体系:電子や原子などの量子力学に従う粒子が多数集まり、互いに相互作用をしている系。
※2 熱平衡状態:ある状態について、物理量の時間平均値が、平衡状態にある孤立系を記述するミクロカノニカル分布での期待値に(ほとんど全ての時刻で)一致するとき、その状態は熱平衡状態にあるという。
※3 ヒルベルト空間:量子力学によって記述される各物理系に付随する数学的な集合。その集合中の各要素が可能な量子状態を表す。
※4 ボース原子:量子力学に従う粒子の種類の一つであるボース粒子の性質をもつ原子。複数のボース原子は同じ量子状態をとることができる。
<研究者のコメント>
「孤立量子多体系の熱平衡化については、本研究で用いた冷却原子系をはじめとする近年の人工量子系の制御技術の発展に伴い、実験的にもますますホットなトピックとなっています。そのような中で、このトピックに関してタイムリーな貢献ができたことを嬉しく思います。」(本多寛太郎)
<論文タイトルと著者>
タイトル:Observation of slow relaxation due to Hilbert space fragmentation
in strongly interacting Bose-Hubbard chains
(強く相互作用するボース-ハバード鎖におけるヒルベルト空間断片化による
遅い緩和の観測)
著者 :Kantaro Honda, Yosuke Takasu, Shimpei Goto, Hironori Kazuta, Masaya Kunimi,
Ippei Danshita, and Yoshiro Takahashi
掲載誌 :Science Advances
DOI :10.1126/sciadv.adv3255
<参考図表>



【関連リンク】
理工学部 理学科 教授 段下一平(ダンシタイッペイ)
https://www.kindai.ac.jp/meikan/2161-danshita-ippei.html