着物の着こなし方は十人十色。東京・エリア別に見る明治時代のコーディネート図鑑

2022-02-14 21:30
画像出典:ニューヨーク公共図書館

ファッションのトレンドは、時代だけでなく場所によっても変わるもの。銀座、浅草、六本木、渋谷など、街の雰囲気が異なるように、和服・洋服問わず装いもそれに呼応するがごとくテイストに違いが出てきます。
この傾向は、明治時代にもありました。当時の東京の女性の装いも、場所によってさまざまな嗜好があったようで、明治28年刊行の日用百科事典『衣服と流行』では、「居はその志を移すとかや」と綴られています。また同書では、当時23区ではなく15区に分かれていた東京の地域別に、衣服の嗜好の違いを挿絵付きで掲載。具体的にどの街でどのような和装が好まれていたのか、その一部をご紹介します。

東京15区 (出典:wikipedia)

【麹町区】トレンド感満載の令嬢コーデ

麹町区の項では、桜が咲き誇る靖国神社にて、大村益次郎の銅像を見つめている良家の令嬢と思われる女性が描かれています。彼女が身につけている矢絣の着物、ショール、そして洋傘は、いずれも当時の女性の間で流行していたものです。
この頃の麹町区は、江戸時代の武家屋敷跡に、学校・軍関連施設をはじめとする公共施設や皇族・華族などの上流階級の邸宅、さらには大使館・教会・ミッションスクールなどが立てられていました。優雅であり、かつ国際色豊かな街の雰囲気に感化され、麹町区ではこのようなトレンド感度の高い女性が多く見られていたのかもしれません。

【神田区】まるで長屋の司令官!?半纏姿の粋なおかみさん

「女房は家に在りて、一日の経済を弁んじ、夕餐の膳に一合作る兵站部(軍隊の後方支援にあたる機能のこと)の行き届きたる仕方は長屋中での司令官なるべし」と、テキパキと家のことをこなす様子とともに紹介されているのは、職人の街・神田区のおかみさんです。蚊絣の単衣着物に、黒八丈の衿を掛けた万筋の半纏姿。半纏はもともと職人や商人の日常着でしたが、江戸時代末期に女羽織が禁止されて以降、防寒着として庶民の女性の間にも広まっていったそうです。
ちなみに、“妻”を表す“おかみ”や“かみさん”という呼称ですが、これは商人や職人の妻の尊称。さらには、なんと“山の神”と同義だという説もあり、当時の“おかみさん”の存在の大さが窺えます。

【四谷区】高尚な奥様風コーディネート

四谷区は江戸時代から非常に栄えていた繁華街の一つで、甲州街道沿いには「武蔵屋呉服店」や「ほてい屋」といった一流呉服店が数十件も軒を連ねていたと言います。華族の屋敷も多かったので、上流階級の人々の利用も多かったことでしょう。
そのような顧客のひとりなのでしょうか、四谷区の項では良家の若妻と思われる女性が紹介されています。小紋に黒羽織をあわせ、丸髷に五分玉の珊瑚珠が付いた金脚の簪を挿している奥様風の装い。同書によると「まだ二十歳の坂を超え給わざる」と書かれており、まだ十代のようですが、落ち着きと気品を感じさせます。
尚、先ほど半纏を羽織った神田のおかみさんを紹介しましたが、上流階級の女性は寒さしのぎに半纏ではなく、このような羽織や吾妻コートと呼ばれる外套を取り入れていたようです。

【本郷区】湯島の茶屋女が着こなすふだん着物

湯島天満宮の社内に佇む茶屋女と思われる女性。通称である湯島天神と掛けているのか、髪型は芸妓や若い女性の間で人気だった天神髷になっています。
棒縞の袷に黒繻子と更紗の昼夜帯をあわせた装いは、女性の日常着の一つでした。縞は江戸時代から支持されている王道の柄で、哲学者・九鬼周造も「“粋”が最も表現されている柄は直線であり、特に縦縞だ」と論じるほど、日本人の感性と調和するものだったようです。
昼夜帯は表と裏を異なる布で仕立てた帯のこと。片面は黒繻子、もう一方には更紗のほか、縞や白地のものもあったようで、江戸中期から明治時代まで女帯の主流となっていました。

【下谷区】アカデミックな街になじむ可憐な晴れ着姿の少女

下谷区は、現在の台東区の一部になっている地区。医者の娘と思われる少女は、未婚の女性が結う文金の高髷に、中振りの単衣、緞子のお太鼓、黒塗りのぽっくりという晴れ着姿で、上野・不忍池の蓮を眺めています。
緞子の帯は明治10年代から20年代に全盛期を迎えた織物。ぽっくりは、嫁入り前の幼い娘が履いていた下駄のことです。
同書では「古風に化粧(つくり)立てて、月前に物思ふ風情あるは優なり」と、そのクラシカルな姿を称賛。内国博覧会の開催や、東京国立博物館などの文化施設の開館で、アカデミックな風潮に湧く下谷区のムードになじむような、凛とした品格を感じさせる装いです。

【京橋区】頭巾をかぶり亀甲柄の被布をまとう老婆

ガス灯の設置、煉瓦造りの建物の建設、洋食屋・洋服店など開店が相次ぎ、先進的な街へと歩み始めていた銀座を擁する京橋区。劇的に変化する街のイメージとは対照的に、古風な被布姿で数珠を爪繰り念仏に耽る老婆の様子が描かれています。
「浮世のことは孫子に打ち任し、身を仏門に帰依して朝暮念仏三昧に耽り」との解説があり、区内に築地・本願寺があったことから、当時このように家のことは子や孫に任せ、老後を仏門に捧げるご隠居の姿が多く見られていたのかもしれません。その中には、変わりゆく街に懐古の念を抱き、浮世に見切りをつけるように仏の道を選んだ人もいたのかもしれないと想像させます。
ちなみに、この老婆も羽織っている被布は、今では七五三などで着る子供用の着物として知られていますが、もともとは江戸時代に男性の茶人や俳人が着用していたもの。明治~大正にかけては女性にも広まり、外出着として普及していたようです。
このように、ファッションは個人の嗜好や時代だけでなく、場所柄によっても違いが現れます。私たちが着物で出かけるときも、その場所の雰囲気をヒントにコーディネートを考えることで、新しい街歩きの楽しみ方を発見できるかもしれません。

【引用画像】
・『衣服と流行』大橋又太郎 / 国立国会図書館

【参考資料】
・『衣服と流行』大橋又太郎(博文館)
・『日本人のすがたと暮らし 明治・大正・昭和前期の身装』大丸弘・高橋晴子(三元社)
・『写真でひもとく街のなりたち』三井住友トラスト不動産
・『10 髪型を見ればわかること』ポーラ文化研究所
・『女子大生における「粋」の医イメージ構造について』九鬼周造
・『74. 大正・昭和戦前期の東京府における皇族・華族の居住地の変遷』青木信夫

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