【浜崎洋介】「コロナ禍」を乗り切るために―「平常心」への問い

※「緊急事態宣言」に際して
新型コロナウィルスによる「医療崩壊」が現実味を帯びてくるなか、昨日、政府が「緊急事態宣言」を出すとのニュースが入ってきました(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200406-00000068-mai-soci)。
データを見る限り、コロナウィルスそれ自体に強毒性があるとは思えませんが――つまり、ウィルス自体に過剰に慌てふためく必要はないのですが――、しかし、それによる社会崩壊と人心不安は無視できません(1)。とすれば、ここで改めて問われるべきは、この「コロナ禍」における「不安」の本質であり、それに対する、私たちの身の処し方でしょう。危機に際して、私たちは、どのように「平常心」を保つことができるのか。それは、そのまま、この危機をどのように乗り越えていくべきなのかという問いでもあります。

※ウィルスが運ぶ「二重の苦しみ」について
かつて、アルベール・カミュは、小説『ペスト』(1947年)のなかで、突然ペストに襲われ、ウィルスに閉じ込められたしまった人々の「不安」を次のように描いていました。

「天災(ペスト)というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間の方が過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者たち(ヒューマニスト)がまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。(中略)ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らはみずから自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。」
「事実上、われわれは二重の苦しみをしていた――まず第一に我々自身の苦しみと、それから、息子、妻、恋人など、そこにいない者の身の上に想像される苦しみと。
それも、ほかの事情のときであったら、市民たちも、もっと外面的で活動的な生活に、はけ口を見出すこともできたであろう。ところが、同時にまたペストは、彼らを閑散な身の上にし、陰鬱な市内を堂々めぐりするより仕方がなくさせ、そして来る日も来る日も空しい追憶の遊戯にふけらせたのである。(中略)そういうわけで、ペストがわが市民にもたらした最初のものは、つまり追放の状態であった。」( )内引用者、宮崎嶺雄訳

ここには、感染症に襲われた人々の二つの「不安」の姿が描き出されています。
一つは、「みずから自由である」と信じていた「人間中心主義者」たちの恐慌の姿であり――グローバリズムの崩壊に慌てふためく新自由主義者の姿、あるいは、近代文明の自由を無自覚に享受してきた「大衆」(オルテガ)の怯えの姿だと言ってもいいでしょう――、そして、もう一つは、「追放の状態」を強いられた人々において現れてくる現実の「苦しみ」の姿です。
まず「人間中心主義者」ですが、彼らは、普段から「人間の尺度と一致しない」ものなどないと考えているため、いざ目の前に「人間の尺度と一致しない」ものが現れると、それに過剰に怯え、狼狽え、「ノイズ」を消し去るためにヒステリックな叫び声を上げはじめる。しかし、その叫び声自体が、人々から冷静さと、落ち着きとを奪っていくので、「ノイズ」は収まるどころか、ますます拡大していくことになる。かくして、ここに、ヒューマニストたちによる「悪循環」が現れることになります。
が、時間を経るに従って、その「ノイズ」を消し去れないことが分かりはじめると、今度は、「追放の状態」を長く強いられた人々の現実的な「苦しみ」の方が大きくなってきます。
カミュは、それを「二重の苦しみ」だと言いますが、まず襲ってくるのは、「我々自身の苦しみ」、つまり、感染症の苦しみはもちろんのことですが、いつ終わるとも知れない「天災」のなかで生活をしていくことの「苦しみ」です。出所不明の情報に振り回され、確かだった「日常」が崩されていくことの「苦しみ」。それは、生活基盤の溶解がそのまま精神的危機に繋がっていく際の「不安」だと言ってもいいでしょう(経済危機が自殺率を高めてしまうのは、この意味においてですが、だからこそ求められるのは、政治の適切な介入なのです。が、損失補償を一切示さずに、できもしないロックダウンを軽々に口にする小池都知事にしろ、この期に及んで、お肉券やらマスク二枚の話を持ち出しながら、自粛に対する一律補償や消費減税を渋る安倍政権にしろ、その愚かさは止め処がありません。このままであれば、今後襲ってくる世界的大恐慌に対して、日本は全く対応できないでしょう)。
が、ここで注意するべきなのは、このウィルスに襲われた人々においては、「生活苦」を何とかやり過ごすための心の「はけ口」もまた奪われているのだと言うカミュの言葉です。そして、それこそが、人々が強いられている「二重の苦しみ」の本当の意味でした。
「ペスト」が出たと分かった途端、アルジェリア海岸のフランスの一県庁所在地であるオランは、その門戸を閉ざし、そんなつもりなどなかった人々が、突如、別離の状態におかれることになります。市の出入り口には衛兵が配置され、港は閉鎖され、海水浴も禁止され、市内には一台の乗り物も入ってくることができなくなります。こうして、数日あるいは数週間後には再会できるものと確信していた人々は突如分断され、会って話すことはもちろん、今や文通によって、互いの状況を知らせ合うことさえできなくなってしまうのでした。
果たして、人は、「他者との接触」を禁じられ、「追放の状態」に監禁されてもなお正気を保つことができるのか。カミュの描きたかったのは、そんな実存の問題でした。

※「平常心」の構え―医師リウーの生き方
ペストの嵐が吹き荒れるなか、きたる絶望的状況を目の前に、人々は次第に現実逃避的な様相を呈しはじめます。が、その一方で、医師のリウーは一人力を振り絞ってペストと闘い続け、また、その友人のタルーは保険隊を結成します。そして、はじめは脱出を画策していた新聞記者のランベールも、ついには彼らと連帯することになります。が、彼らを支えていたのは、決して大げさなものではなく、やはり「常識」と呼ぶべきものでした。
なかでも注目すべきなのは、医師リウーとその友人タルーとの会話でしょう(括弧内引用者)。

(タルー)「あなたの勝利はつねに一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持ちになったようであった。
(リウー)「つねにね。それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
(タルー)「たしかに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとってはたしてどういうものになるのか」
「ええ、そうです」とリウーはいった。「際限なく続く敗北です」
(中略)
(タルー)「誰が教えてくれたんです、そういういろんなことを?」
答えは即座に返ってきた――
(リウー)「貧乏がね」

医師リウーは、その「際限なく続く敗北」を覚悟しながら、なお、ペストとの闘いを放棄することがありません。一切のヒロイズムとは無縁に、淡々と為すべきことを為すだけなのです。そして、タルーから、その生き方を教えてくれたものとは何かと問われたとき、リウーは答えるのでした、「貧乏がね」と。
ただし、ここで言われている「貧乏」は、精神的荒廃を招く「貧困」とは違います。言ってみれば、それは、与えられた「困難」のなかで「どうにかやってきた」ことの異名でしょう。「世界には、どうしようもないこと(不条理)がある」ということを前提に、そのなかで、なお自らの流儀を見失わない努力、それが医師リウーの精神を鍛えてきたのでした。
が、それは決して「敗北主義」ではありません。むしろ逆に、自然の「不条理」を引き受けるからこそ、私たちは、この「不条理」(ウィルス)との「付き合い方」を学ぶことができるのです。「自然」は抑えつけるものでも、排除するものでもない。それは受け入れ、味わい、ときには譲歩するものなのです。そして、それはそのまま、私たちの「死」に対する態度をも導くことになるでしょう。「死」を引き受けているからこそ、私たちは、今、ここにある「生」に集中することができるのです。「死」を信頼していればこそ、私たちは、今、目の前にある仕事に全力を傾け、今、すべきことに落ち着くことができるのです。
果たして、今回の「コロナ禍」は、一つの試練です。突然の休校要請、補償なき自粛要請によって、そのバランスを失いつつある暮らしのなかで、私たちは平常心を保つことができるのか。日々更新される不完全な情報のなかで、なお狼狽えることなく、一つ一つの判断を下していくことができるのか。情報が錯綜し、どこにも硬い岩盤を見つけることのできない泥沼のような日常のなかで、なお自らの支えを見出すことができるのか。いずれにしろ、それらの試練は、今後の私たちの生き方を導くクリティカルポイントになるでしょう。
不条理に際してこそ、私たち「人間」の本性=実力は問われるのです。

(1)まず、新型コロナウィルスの毒性についてですが、それが異様に強力だと言っている専門家を私は知りません。インフルエンザウィルスが5人会えば5人とも感染するのに比べて、新型コロナウィルスは5人会って1人が感染する程度のものだといいますし(ウィルス学の専門家である宮沢孝幸氏への藤井編集長のインタヴィュー記事https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200329-2/)、その毒性についても、MERS(致死率35%)やSERS(致死率10%)のような強毒性はなく、感染者の8割は普通の風邪同様3、4日で治り、医療崩壊さえ起こさなければ、その致死率も1%程度で抑えられるだろうと言われています(岡部信彦氏インタビュー「『コロナ、そこまでのものか』専門家会議メンバーの真意」https://digital.asahi.com/articles/ASN3L3D4DN3GUPQJ001.html参照)。
また、小浜逸郎氏のメルマガ(https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200329-1/)にもあったように、日本では毎年12万人以上の方が肺炎で亡くなり(毎日300人以上の計算)、毎年流行るとは限らないインフルエンザでさえ年平均3000人の方が亡くなっていることまでを考えれば(統計によっては1万人)、やはり、新型コロナウィルスに対して、それだけを過剰に恐れる――過剰に慌てふためく――必要はないと言うべきです(ちなみに補足しておくと、アメリカの2017年~18年におけるインフルエンザによる死亡者数は6万人だと言われています―和田秀樹氏「日本の医療を生かしたコロナ対策を」https://special.sankei.com/f/seiron/article/20200401/0001.html参照)。
ただし、その一方で、先ほど挙げた致死率は、「医療崩壊」がないという前提で導かれた数字であることも事実です。だとすれば、すでに藤井編集長も強く訴えられているように(https://www.youtube.com/watch?v=Ffi59sND5i4&fbclid=IwAR3e75y2IxLemre5DOnjEX4IILuV-L6UFxllSwBEVAV76l_eHLIgBIIFBdI)これから増えてくるであろう医療需要に対しては、それを徹底的に抑え込む努力をしつつ(ウィルスをうつさない/うつされない努力を徹底しつつ)、その医療供給能力を迅速に高めておくことは(人工呼吸器・病床数の拡充、医療従事者の休息の確保など)、早急に必要な対策となってきます(「医療崩壊」の危険については、岡田晴恵氏も、「『医療崩壊』最悪のシナリオ」『文芸春秋』4月号/https://bungeishunju.com/n/n143f2c336728において警鐘を鳴らしています)。
また、その感染拡大抑止(自粛要請)に伴う経済恐慌に対する万全の対策が必要であることも論を待ちません(4月~6月のアメリカのDGPは前期比マイナス34%、日本もGDPの2割が消し飛ぶと言われています)。経済対策を徹底する姿勢(圧倒的な財政出動と、一律補償と、消費減税)を政府が見せるだけでも、人々の将来不安のいくらかは和らぎ、そこから、「何とか、今を持ち堪えて頑張ろう」とする気力や明るさも見出し得るはずです。この期に及んで「財政規律」を言う人間がいれば、それは「人間」ではありません。

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