日本のラーメンブームはこのお店から始まった。 「淺草 來々軒」 110年の歳月を経て蘇る。
株式会社新横浜ラーメン博物館(横浜市港北区、代表取締役:岩岡 洋志)では、日本で初めてラーメンブームを起こした「淺草 來々軒」(明治43年創業、昭和51年閉店)を來々軒の創業者・尾崎 貫一氏の孫である髙橋 邦夫氏(87)、玄孫である髙橋 雄作氏(33)の協力も得て、2020年10月14日(水)に新横浜ラーメン博物館に復活する運びとなりました。また、1階展示ギャラリーでは「淺草 來々軒 特設展示」と題して、これまでの調査をもとに、來々軒がブームを起こした経緯と背景、そして今回の復活プロジェクトストーリーを、展示・映像にて発表いたします。詳しくは下記をご参照ください。
画像入りのニュースリリースはコチラ
https://www.raumen.co.jp/information/news_001093.html
「淺草 來々軒」の功績や概要につきましては、8月6日第1弾のニュースリリースをご参照ください。
https://www.raumen.co.jp/information/news_001083.html
プロジェクトの経緯
「淺草 來々軒」は日本で初めてラーメンブームを起こしたお店であり、ラーメン史を語る上で欠かせないお店です。
私どもが來々軒の調査を始めたのは1991年、來々軒三代目 故・尾崎 一郎氏のインタビューから始まります。1994年の開館当時は主に所蔵物と証言を中心とした発表でしたが、その後は新聞や書籍などの公的な資料を中心に調査を進めました。まず驚いたのは、戦前は食に関する記事が少ない中、出てくる記事は圧倒的に來々軒に関わる物でした。そしてそれらの記事に共通するのは“大繁盛”、“圧倒的に美味しい”という記事でした。調べていくうちに私たちは「何故來々軒は大繁盛したのだろうか?」、そして“当時の人々に圧倒的に支持された味わいはどのようなものだったのだろう?”という疑問が生まれました。そこで私たちは、その疑問を解明すべく、徹底的に「大繁盛した経緯と背景」、そして「來々軒の味」について調査を開始しました。当初の予定では、調査結果を展示として発表する予定でしたが、調べて行くうちに様々なことがわかり“ここまで調べたら再現して食べてみたい、いや、食べてもらいたい”と思うようになり、このプロジェクトがスタートしました。
明治43年創業当時の遺伝子を持つ小麦粉で再現する麺
「麺は日清製粉の“鶴”と“亀”という銘柄の小麦粉をブレンドし、そこに卵を入れて作った。かん水は、かん石を水に入れ、その水を使用した」という尾崎 一郎氏の証言から麺の調査をスタートしました。
「鶴」と「亀」は、日清製粉の前身である館林製粉が発売をしていた銘柄でしたが、当時の配合記録は残っていませんでした。唯一分かったのは両製品とも国産小麦を使用した(主に)麺用の小麦粉であったという事。昭和30年発行の『日清製粉株式会社史』を調べると「原料は社員が近郷のほか、佐野、石岡、土浦、水戸等で買い付けた」と書かれており、群馬県を中心に当時の品種を調査しました。110年前のことですので難航を極めましたが、幾度となく国会図書館に通いつめ、いくつかのポイントとなる資料を見つけ出しました。
●明治43年発行『群馬県立農事試験場要覧』…8種類の小麦が試験されており、その中で「赤坊主」が粉質麺用と書かれています。この“麺用”とはうどん用粉、つまり中力粉であることがわかりました。
●大正2年発行『日本主要農作物耕種要綱』…群馬県には100種類ほどの品種があり、その中でも「赤坊主」が約3割の作付面積と書かれており、当時の群馬県の主要品種は「赤坊主」であることがわかりました。
もちろん他の小麦もブレンドされていたと思われますが「赤坊主」を中心にブレンドされていたのではないかと推測、この結果を群馬県農業技術センター、群馬県中部農業事務所に確認したところ「鶴と亀に使用されていた小麦の品種は、赤坊主をはじめとしたいくつかの小麦が使用されていた可能性が高いと考えられる」との見解をいただきました。
しかし、小麦は品種改良をされていくため、現在「赤坊主」の品種は流通していません。そこで「赤坊主」から始まる系統図や、遺伝子情報から調査し、後継品種として同じ群馬県産の「さとのそら」を使用し、当時の麺を再現することにしました。
尾崎 一郎氏曰く「昭和5~6年頃までは、中国式の青竹打ちで、昭和10年頃には機械打ちになった」と証言しております。今回の再現では、1日100食限定で創業当時の青竹製法で提供し、それ以外は昭和10年以降の機械製麺で提供することとしました。
その中で、青竹打ちは中太麺で加水(麺に加える水の量)45%、機械製麺は中細麺で加水38%。
また麺に使用するかん水は「かん石を水に入れ、その水を使用した」という証言があり、かん石は「炭酸ナトリウムの結晶」のため、証言に基づき炭酸ナトリウム100%のかん水を使用します。
こうして再現された明治43年の創業当時の麺は、現代のコシの強い麺とは一線を画し、ソフトで旨みがあり、風味と滑らかさも同居した、現代でも充分に通用する味わいに仕上がりました。
再現にあたって
このような形で、今回は、当館が調査した証言や史実を元に再現をしますが、断片的なものや不明な点もある為、100%当時の味を再現するというものではありません。しかしながら不明な点は当時の裏付けのある資料や食事情、時代背景から推測をし、末裔の承認を受けたもので再現します。
時代背景の例として、明治・大正時代、日本の食料自給率は90%を超えていたといわれております。今の時代とは逆で、野菜や豚肉、小麦などは国産より外国産の方が高価なものでした。
そのような時代背景から來々軒に使用されていた食材は、特殊品(かん水・メンマ)以外は全て国産だったと考えられます。
手間暇かけた昔ながらの製法で再現する「焼豚」と「メンマ」
尾崎 一郎氏によると焼豚は「細長く切った肩肉に醤油と赤粗目、食紅、塩をまぶしつけて味を馴染ませ、かまどに吊るし直火焼きにする」と証言しています。大正後期までは焼豚が主流でしたが、手間がかかるため、ラーメン店のチャーシューは次第に煮豚へと変わっていきますが、今回は当時の製法で焼豚を再現します。日本養豚協会によると当時流通していた豚の血統はバークシャー種、中ヨークシャー種とのことで、今回焼豚に使用する豚はバークシャー種を掛け合わせた国産豚を使用し再現します。
そしてメンマは「台湾産の乾燥メンマを1週間かけてゆっくりと水で戻し、豚バラ肉と一緒に3~4時間かけて赤粗目や醤油でじっくり煮ていた」と証言しています。またメンマは当時と同じく、メンマの名付け親でもある丸松物産から仕入れます。昨今ラーメンに使用するメンマは、時間と手間がかかる乾燥メンマはほとんど使われず、水煮や塩メンマなどが主流ですが、当時と同じように乾燥メンマから時間をかけて作りあげます。
証言と史実に加え、当時の食事情を加味したスープ
スープに関しての証言は、鶏と豚と野菜を使用した清湯スープで、配合は時代により変化しており、情報が断片的です。
また昭和初期には煮干しを加えていた時期もあるとのことです。鶏は当時、牛よりも高価な食材だったため、安価に手に入るのは卵を産み終わった親鶏でした。そして当時流通していた鶏は今では高級な“名古屋種”や″軍鶏種”等が主体でした(『畜産史』より)。親鶏は肉としては硬いですが、ダシとしてはうま味が強く、現代のラーメン店でも好んで親鶏が使用されます。
このような観点から鶏は名古屋種の親鶏を使用。また煮干しに関しては証言によるとオーナーの尾崎氏より「日本人の口に合うように」と昭和初期頃から煮干しが加えられたとのことで、今回の再現に使用しています。そして国産の豚ガラ、野菜類を加え、弱火でじっくり炊き上げます。使用する食材はシンプルですが、鶏も豚も飼育環境や流通の変化により品質も向上しているため、今の時代だからこそ素材の旨味が活かされたスープに仕上がっております。また、來々軒で使用されていた醤油は創業当時から「ヤマサ醤油」の濃口醤油。ヤマサ醤油によると、当時は全て国産の大豆と小麦、食塩が使われていたとのことで、今回使用する醤油は原料が全て国産の丸大豆醤油を使用します。
110年の歳月を経て復刻された丼
1994年の開業前に、來々軒3代目の尾崎 一郎氏の証言により復刻した丼を再現します。110年前の丼を再現する技術が必要なため、今回の再現には、世界中のトップシェフや国内の有名ラーメン店から依頼が殺到している有田焼の窯元「李荘窯」寺内 信二氏に依頼。寺内氏曰く「明治後期の唐子と言えば、おそらく長崎の三川内焼で、職人が一つずつ手書きで仕上げたもの。当時の原料・絵の具・釉薬は現在では異なるため、当時のテイストを出すのに試行錯誤した」とのこと。また「丼に5つの唐子が描かれており、寸分たがわず再現する技術は日本でも数えるほどの職人しかいない」とのことです。
「淺草 來々軒」復活に向けて
これらの調査結果をもとに、「淺草 來々軒」の復活を、來々軒の末裔である髙橋 邦夫氏に提案したところ「ここまで調べたのであれば、私としても是非協力したい」とご快諾いただきました。
邦夫氏曰く「私は、祖父から代々受け継がれてきた來々軒の歴史を託されております。しかしながら私も87歳になりましたので、この功績を一族のみならず、後世に残したいという想いが一番にありました。このような機会をいただき感謝しております」
そして玄孫である雄作氏は「今回のお話は大きなプレッシャーではありますが、祖父が高齢ですので元気なうちに來々軒を復活させたいという想いが一番にあります。そして、ゆくゆくは來々軒があった浅草に凱旋オープンできればという夢を持っております」
また來々軒の運営及び再現は、雄作氏のたっての希望で「調査結果を見た時に小麦粉や自家製麺についての技術や知識に長けているお店、そして同じ醤油ラーメンで王道を極められているお店として、私の頭に浮かんだのは“支那そばや”さんでした。來々軒が多くの人々に影響を与えたように、支那そばやさんも、今活躍している有名ラーメン店の方々に大きな影響を与えたお店ですので、そういう点でも支那そばやさん以外考えられませんでした。」
そして再現を依頼された支那そばやの佐野 しおり氏は「今回のお話は大変光栄なお話であると同時に、大きな責任を感じました。やはりラーメン史を語る上で原点のお店ですので、來々軒の名に泥を塗ることも出来ません。本当に私たちが適任なのか?とスタッフたちと何度も話し合いました。最終的には、もし佐野(創業者 佐野 実)が生きていたら“このプロジェクトに命を懸けて受けていた”だろうと思うし、私も使命だと思い、お引き受けすることにしました。」
このプロジェクトは、新横浜ラーメン博物館が調査・裏付けをし、支那そばやが再現・運営をし、來々軒末裔が承認するという3者で取り組むプロジェクトです。
今、蘇る「淺草 來々軒」
今回再現するメニューは、來々軒の看板メニューであった「らうめん」、「ワンタンメン」、「シウマイ」です。
らうめん 930円
「支那そばで売り込んだ店」と書かれているようにこのラーメンがきっかけにより、同業態・他業態へと広がっていきました。今回は創業当時の青竹製法の麺と、昭和10年以降の機械製麺の2種類の麺が楽しめます。
●らうめん(青竹打ち)…1,100円 ※1日100食限定
●らうめん …930円
ワンタンメン 1,130円
大正時代までラーメン店は“ワンタン屋”と呼ばれており、そのくらい人気のあったメニューです。
戦前のワンタンは華やかさはありませんが、皮の喉ごしを愉しむためにありワンタンスープも人気でした。
シウマイ 150円/1個
戦後、餃子に押されてラーメン店でシウマイを見ることが少なくなりましたが、戦前のラーメン店では定番でした。当時のシウマイは現代のものと比べかなり大きい60g。当時「シウマイと言えば、横浜の博雅、浅草の來々軒」と言われるほどその知名度と味は有名でした。
同時開催「淺草 來々軒 特設展示」 於:1階展示ギャラリー
「淺草 來々軒」のオープンに伴い、1階展示ギャラリーにおいて「淺草 來々軒 特設展示」を開催します。この展示は約30年間の調査をまとめたもので、來々軒開業までの経緯や、來々軒が繁盛した理由、そしてどのようにラーメンブームが起こったのかを史実を元に展示と映像で紐解いていきます。また今回の復活プロジェクトをストーリー仕立てにしたコーナーも併設します。