【名城大学】SFのその先へ、音速(時速1240km)を超えた「超音速滑走体」の実現を目指した研究者

REALIZE Stories~社会の進化を、世界の可能性を、未来の希望を、描いた者たちの物語~

REALIZE Researcher 研究者

小澤 久之亟

元名城大学学長
1905年生~1988年没


SFのその先へ、「超音速滑走体」。

夢見たREALIZE

現実の社会に対する課題や、未来への可能性、叶えたい夢に向け、実現へと動き出すストーリー

時代を変えるには、圧倒的なものでなければ意味がない

第二次世界大戦後の混乱期。日本はどう立ち上がるべきか。未来を憂う小澤が復興のシンボルとして夢を託したものこそ、超音速滑走体だった。東京帝国大学(現東京大学)工学部船舶工学科を卒業後、三菱重工に入社した小澤。開発を担当した四式重爆撃機『飛龍』は、当時最速の時速540kmを実現し、大きな成果を収めた。しかし、敗戦国となった日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により全戦闘機を処分、さらに新たな航空機の生産も禁止。小澤の飛行機設計の道は断たれた。しかし小澤は諦めなかった。1953年、名城大学理工学部の教授に就任した小澤は、「飛行機づくりができないのなら、地上で飛行機の速度を上回る乗り物を実現させよう。そして、人と物の流れを加速させ、日本を復興させたい」と考えた。そうして新たに取り組んだものが「音速滑走体」であり、さらに音速(時速1240km)を超えた「超音速滑走体」である。小澤は生前、研究室の学生に「地下資源の乏しい日本は、技術力を世界に知らしめていかなければならない」と語っていた。単なる目新しさではない。世界を、時代を、振り向かせるためには、人々を驚かせる圧倒的なものでなければ意味がなかった。「超音速滑走体」は、小澤の夢と日本の希望を乗せた特別な乗り物だったのだ。

名城大学に超音速滑走体の模型を見学に訪れた国際SFシンポジウム参加者一行(1970年9月1日)
名城大学に超音速滑走体の模型を見学に訪れた国際SFシンポジウム参加者一行(1970年9月1日)

音速を遥かに超えた時速2430kmの怪物

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