[奈文研コラム]8世紀初めに造られた中国の壁画墓
2024-06-17 09:00
7世紀末から8世紀初めに築かれたキトラ古墳や高松塚古墳の壁画は、漆喰の上に色鮮やかな顔料で繊細に表現されており、九州を中心に分布する装飾古墳の原始的な壁画とは区別して、極彩色古墳壁画とよばれています。壁画にみる天文図や四神、十二支像、人物像の内容から、朝鮮半島や中国大陸からの影響が指摘されてきましたが、高句麗や百済は7世紀中頃に滅亡し、またその末期の壁画は石室の石材に直接描かれます。そのため近年では、キトラ古墳・高松塚古墳の極彩色壁画は中国からの影響とみる説が有力となっています。
高松塚古墳壁画の発見当時から引き合いに出されてきた永泰公主(えいたいこうしゅ)墓は、唐の都・長安の郊外にあります。永泰公主は四代皇帝・中宗の娘で、政治闘争に巻き込まれて亡くなりましたが、中宗が即位すると身分を回復され、高宗の墓の近くに埋葬されました。墓は非常に大型で、長い墓道を下った地下の奥に墓室があります。墓道の入り口の東・西壁には青龍・白虎が描かれ、その背後には建築物や武器・武器をもった兵士等も描かれています。
墓室は前・後二室あり、前室の東・西壁には多くの女子人物が描かれています。高松塚古墳の女子群像と比較すると、衣服の表現は細部で異なっていますが、如意(にょい)や円翳(えんえい)、払子(ほっす)などの持ち物は共通します【写真1】。唐の記録である『新唐書(しんとうじょ)・百官誌(ひゃっかんし)』には、宮廷女官の持ち物が事細かに記載されており、それとの対照から永泰公主墓の女子群像は当時の女官を描いたものと考えられます。
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