【川端祐一郎】儒学と雀荘──中国に学ぶ保守主義

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教)

「儒学治国論」の魅力

表現者クライテリオン5月号に寄稿頂いている石井知章氏が翻訳された、『新全体主義の思想史』(著者はコロンビア大学の張博樹教授)という本があります。これは現代中国の政治思想をいくつかのグループに分類した上で論評を加えたものなのですが、大まかにいうと、共産党政府の政策を支持する体制派を中道とすれば、「右派」は欧米風の民主主義体制への移行を望むリベラリスト、そして「左派」はレーニンや毛沢東時代の理想に帰ろうという厳格な共産主義者たちを指します。
いま中国には、「経済的格差の拡大」と「政治的自由の抑圧」という大きな問題があるわけですが、左派は前者を、右派は後者を特に問題視することが多いようです。そして右派にも左派にも中道派にも、それぞれさらに細かい分類があって、全部でだいたい九つ前後のグループにまとめられるというわけです。
ところで、上に述べたような意味での「左右」の尺度では分類できない政治思想もあって、その一つが、「儒学治国論」と呼ばれるものです。その名の通り、儒教的な理想に基づいて国を治めるべきだという一派で、「民主政治」ではなく「王道政治」の追求を本気で説いています。
著者の張氏は近代主義者であり欧米的リベラル派なので、儒学治国論を「時代遅れ」だとして一蹴しています。しかし読んでいる私のほうは、その張氏が批判的に紹介する儒学治国論の思想に、むしろ惹かれました。かなり理念的で現実味があるとは言い難いのですが、それでも、政治システムというものに関する我々の想像力に有意義な刺激をもたらすところがあると思うのです。

「三院制」のバランス感覚

中国の儒学者に言わせると、欧米風の自由民主主義も社会主義的な民主主義も、どちらも「民主的過ぎる」が故に批判されなければならない。というのも、民主政治の合法性の拠りどころは「民意」のみであって、それは人の欲望や利益に過大な価値を置くものであり、政治の場から「神聖性」が排除されてしまっているからです。また、民主政治を動かすのは「実質的な民意」ではなく「形式的な民意」であって、政策の正当性が民意の「数」によって決定され、その道徳的な「質」によって決定されるのではない点も問題であるとされます。
政治権力は本来、「天と地と人」という三重の合法性を備える必要がある。「天の合法性」は、人を超越する神聖な原理に照らした合法性。「地の合法性」は、民族が積み重ねた歴史と文化を根拠とする合法性。そして「人の合法性」は、人心と民意に基づく合法性であり、現代の民主政治で考慮されているのはこれのみです。そこで蒋慶という儒学者は、この三つの合法性を全て取り入れた、「議会三院制」という制度を提唱しています。
まず「通儒院」は「天の合法性」を代表する議院で、その議長職は、儒教界が一致して推薦する大儒が担う終身制。そしてその議員は、社会から広く推薦される民間の賢儒と、国家が設立する教育機関で「四書五経」などの専門的訓練を受けた儒士から成るとされます。次に「庶民院」は「人の合法性」を代表するもので、これは西洋風の選挙に基づく民主的な議院であり、我々にも馴染み深いものです。
そして「国体院」というのが「地の合法性」を代表する議院なのですが、これは独特です。まず議長職は、孔子の子孫が世襲制で務めることとする。また議員は、歴代の著名な儒者や君主の末裔と、歴史に残るその他の文化的著名人の子孫、さらには道教界、仏教界、イスラム教界、ラマ教界、キリスト教界の有力者などから構成されるとされます。
法案は三院全てが可決しない限り成立しないので、たとえば庶民院の提案が民衆に利益をもたらすものだったとしても、天道に背くところがあれば通儒院が同意しない。逆に、通儒院の提案が天道に符合する神聖な内容であったとしても、民意に背く場合は庶民院が否決するというわけです。
もちろん、こんな設計主義的な理想を掲げて政治制度を改革しても、うまくいくとは思えません。しかし、あえて理想的な制度というものを想像し、それについて語ってみることも時には大事です。そして、いくつもあり得る理想論の中で言えば、多数決主義にもエリート主義にも、守旧派にも未来派にも完全には属さない「三院制」は、バランスの取れた構想であるとは言えます。
「宗教的正統性」「歴史的正統性」「民主的正統性」というのは、いずれも本来は蔑ろにできません(儒教が宗教かどうかという議論にはここでは立ち入りません)。この3つの正統性を全て汲み取ろうという儒学治国論の発想は、中国のみならず日本においても欧米においても、現代の政治制度に何が足りないかを理解する上で有益な論じ方だと私には思えます。

雀荘化した高齢者施設

さて、急に話が変わるようですが、東京高検の黒川検事長が新聞記者と「賭け麻雀」に興じていた咎で、辞職に追い込まれるという騒ぎが先日ありました。あの事件そのものについて論評したいことは特にないのですが、中国の麻雀賭博に関する面白い研究があって、ぜひ紹介しておきたいと思いました。

劉振業氏(京都大学の大学院生)が昨年、『「負の賭博」を 「正の賭博」に:中国広州市におけるX社区「星光老年の家」の麻雀賭博の事例から』という論文を書いています。これは中国の老人が集まる雀荘で行った聞き取り調査の記録で、以下のURLから読むことができます。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/243978/1/ctz_11_172.pdf

中国でも近年は高齢化が進んでおり、21世紀に入ってから「星光老年の家」と呼ばれる高齢者福祉施設が、全国3万箇所以上に建設されました。ところが、政府が建設資金は負担したものの運営費を出さなかったために、壊れたエアコンを修理することもできないぐらいの経営難に陥ったところが多く、数年後には約半数が閉鎖に追い込まれたそうです。
で、残りの半数も順調に運営できているわけでは全くなく、存続の道を探った結果、多くが老人向けの雀荘に変わったらしい。利用者から少額の料金を徴収することで、細々と運営されているようです。当初は総合的な福祉施設で色々な設備や道具があったものの、資金難で活動が縮小されていくうちに、結果的に麻雀卓・牌だけが残ったというケースも多いとのことです。
入り口には「賭博行為禁止」の掲示がしてあるものの、実態としては、多くの「星光老年の家」で賭け麻雀が行われている。これが中国のメディアでは、「家族や社会秩序の安定を阻害する」ものとして否定的に報じられることが多く、共産党政府も道徳的退廃として問題視しているらしい。劉氏の取材を受けた老人の中にも、「星光老年の家」で行われている賭け麻雀に批判的な人がいて、「あそこは爛賭二(病的ギャンブラー)だらけでしょう?なんであんなものを建てたのかな?党は何を考えているのでしょう」と語っています。

雀荘で培われる庶民の常識

ところが、その「星光老年の家」に潜り込んで取材した劉氏の報告を読むと、実態としてはさして不健全な賭博場であるとは言えないようです。いやそれどころか、庶民的な常識が確認される、かけがえのない交流の場であるようにすら思えます。
まず、「星光老年の家」の麻雀で賭けられているお金は少額で、日常生活に支障をきたすような水準ではない。また、お年寄りなので「あまり頭を使いたくない」ということで、ルールも一般的な麻雀に少し変更を加えて、技術や経験や策略よりも、運の要素が強まるようにしている。その結果、勝者と敗者の差が広がりにくいようになっています。
さらに、これが面白いのですが、今日勝った人が後日やって来る時は、ちょっとした差し入れや贈り物を持参するのが暗黙の決まりになっている。賭け麻雀そのものよりも、このマナーを破ったことで喧嘩になることすらあるそうです。
中国でもいわゆる「女性の社会進出」が進んで共働き家庭が増え、子供が未就学のうちや学校が夏休みである間は、祖父母が孫の面倒をみているケースが少なくない。そして星光老年の家に集まる老人は、孫の世話も大変だし、息子夫婦との諍いも多少あるということで、憩いを求めてやってくる面もあるようです。嫁の悪口とか、息子の心配とか、孫の自慢とかを言い合う場が欲しいという気持ちは分かりますよね。孫が小学一年生になるときや、夏休みが終わって新学期が始まる際は、祖父母の負担が大きく減るので、そのお祝いの意味を込めて、雀荘で交換される贈り物が文房具になることもあるらしい。
自動卓(牌を混ぜて積む作業を機械がやってくれる麻雀卓)を使わない主義の人も多いみたいなのですが、それは、牌を混ぜる際に手と手が触れ合うことで、親密な関係が築かれるからだそうです。男女で打っていると、何度も手が触れ合ううちに恋愛関係に発展することもあるらしく、60代でもそういう事例がある。往々にして不倫の原因にもなるので、中国では男と麻雀を打つ女が「売春婦」と罵られることもあるとか。賭博に関するトラブルは少ない一方で、麻雀を通じたセクハラで追放されるお爺さんがいたりもするようです。
そもそも麻雀は、中国では国民的な遊戯です。劉氏が取材したある老女は、「トランプなんて外来のものだからあまり好きにならないわ。麻雀って、漢字が書かれてあったり、竹のような牌もあったりして、その一つ一つがとてもきれいでしょう。それに、中国人はできるだけ「隠す」(隠=ヤァン)ことを追求していたけど、麻雀は『現す』(顕=ヒィン)ゲームなのよ。何回か一緒に打てばその人の本性が現れてくるね」と語っています。
要するに麻雀は、単なるゲームでもギャンブルでもなくて、彼らの伝統的な生活習慣の一部になっているということです。そして雀荘のコミュニティで、彼らの庶民的な道徳が確認され、育まれてすらいるわけです。
四川省、湖南省、重慶市などでは、親戚が死ぬとお通夜の日に麻雀を打つしきたりがあるらしい。これは故人の霊魂に、生者の元気で賑やかな姿を見せることで、安心して死後の世界へ移ってもらうためだそうです。私にはなかなか良い風習だと思えるのですが、中国でも最近は妙な「ポリコレ」の風潮があるせいで、「死者や葬式に対する冒涜だ」と批判されることも多いというから残念です。

中国に学ぶ保守主義

私が中国人だったら、「毛沢東の社会主義か西欧の民主主義か」とか「経済発展か政治的自由か」とかいう争いの前に、この「星光老年の家」における賭け麻雀文化のようなものを、まず守りたいと思いますね。先の論文を書いた劉氏も、恐らくそういうことが言いたかったのではないでしょうか。
私は日本にも、「儒学治国論」のようなアナクロニズムを語る知識人がある程度は存在して然るべきであるし、雀荘化した「星光老年の家」のような、庶民の常識が培われるコミュニティを作ったり守ったりすることの意義が、もっと語られるべきだと思います。日本の保守主義にとって、中国人の政治思想や民衆文化から学び得ることも、案外少なくはないのではないでしょうか。