約150点の資料を通して昭和30年代を“変化”という視点で紹介 「日常をつくる!企業博物館からみた昭和30年代」を たばこと塩の博物館(東京・墨田区)で1/18~3/23開催
たばこと塩の博物館では、2025年1月18日(土)から3月23日(日)まで、「日常をつくる!企業博物館からみた昭和30年代」展を開催します。
洗濯や炊飯を電化製品に任せる。郊外の家から都心まで電車通勤する。毎週休日があって、映画やデパートでの買い物、外食、旅行などを楽しむ。このような都市生活のあり方が庶民にも広がったのが昭和30年代(1955-64年)です。他にも、塩などの調味料を定量包装された形で買う、洗い物や掃除に洗剤を使う、時計で時間を気にしながら仕事する、デスクワークしながらたばこを吸う、お給料の一部を預貯金で積み立てるなど、この時期に普及したライフスタイルは多岐にわたります。
昭和30年代当時、戦争による物資不足は解消されつつあったものの、多くの人は日々の生活を成り立たせるのに必死でした。企業は、家事の負担を軽くするような、心に活力や安らぎを与えるような商品やサービスを提供することで成長を図り、今につながる「日常」の土台が築かれていきました。
本展は、すみだ企業博物館連携協議会(花王ミュージアム、たばこと塩の博物館、東武博物館、郵政博物館)、セイコーミュージアム 銀座による共同監修のもと、昭和30年代の暮らしを支えた各企業のアイテムや広告、当時の写真など約150点を展示します。3つのコーナーで構成し、日常のあり方が大きく変化した10年間を振り返ります。
開催概要
名称 : 「日常をつくる!企業博物館からみた昭和30年代」
ヨミ : ニチジョウヲツクル!キギョウハクブツカンカラミタショウワ30ネンダイ
会期 : 2025年1月18日(土)~3月23日(日)
主催 : たばこと塩の博物館
協力 : すみだ企業博物館連携協議会
会場 : たばこと塩の博物館 2階特別展示室
所在地 : 東京都墨田区横川1-16-3(とうきょうスカイツリー駅から徒歩10分)
電話 : 03-3622-8801
FAX : 03-3622-8807
URL : https://www.tabashio.jp
入館料 : 大人・大学生:100円/満65歳以上の方:50円/小・中・高校生:50円
開館時間: 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 : 月曜日(ただし、2月24日は開館)、2月25日(火)
※やむをえず開館時間や休館日を変更する場合があります。最新の開館情報は、公式Xかお電話でご確認ください。
公式X: https://x.com/tabashio_museum
展覧会の構成と展示内容の紹介
- 暮らす - いと(わ)しき手間たち -
かつて朝起きて最初の家事は、竃に火をくべることでした。洗濯は、屋外でしゃがみながら洗濯板で洗い、手絞りする重労働でした。衣服は自宅で仕立てるのが基本、商店をめぐっての買い物、育児や看病、夜なべしての繕いもの、年中行事の準備など、家事は膨大でした。こうした家事のひとつひとつには、豊かな知識、工夫、技術が宿っていましたが、当時、家事の負担は女性に集中しており、主婦たちは早朝から深夜まで身体を酷使して家事にあたっていました。こうした負担を大幅に軽減したのが、家電やガス機器の普及、住居の近代化でした。電気洗濯機や都市ガスは、すでに戦前に登場していましたが、庶民にまで広がったのは昭和30年代のことです。それと前後して女性の社会進出が進み、今度は家事と仕事の両立が、主婦の向き合う新たな課題となっていきました。
このコーナーでは、昭和30年代に大きく変化した暮らしのあり方、そして家事の形を紹介します。
塩は量り売りから包装品へ ~この時代に、調味料は個包装品へと変化していった~
昭和30年代は、それまで量り売りされていた調味料が、包装品へと転換を始める時期でした。塩もその一つで、それまでは「叺(かます)」と呼ばれるワラ編みの包みで工場から販売店に運ばれ、販売店で大きな据え置きの箱に移し替えられ量り売りされていました。日本専売公社は、昭和30年(1955)に25kg入紙袋包装の「上質塩」を販売し、量り売り品の品質向上を図るとともに、小口包装品の包装の改良や低価格化を進めました。
正面に量り売り用の木箱、その奥に秤が見える。量った塩は新聞紙などに包んで客に渡していた。右側には個包装(瓶と紙袋)の塩が並んでいる。
「食卓塩」のポスターの多くが、洋食のイメージとともにデザインされており、卓上調味という新習慣を訴求するものだった。
瓶の絵が描かれたオート三輪に乗る「ミス食卓塩」。
【お風呂で洗髪の広がり ~女性のヘアスタイルの多様化と高品質なシャンプーの登場で洗髪の習慣が広まっていく~】
昭和初期、日本にも「シャンプー」という言葉が定着しましたが、当時の洗髪頻度は週に1回程度で、短髪の男性や子どもは、体と髪を一つの石鹸で洗うのが一般的でした。昭和30年代に入って、女性のヘアスタイルが多様化し、パーマやショートヘアが流行しますが、戦前から作られてきたシャンプーはアルカリ性の石鹸質固形シャンプーだったため、きしみやごわつきが生じて髪が痛んだり、パーマがかかりにくいモノでした。これを解決したのが昭和30年(1955)に花王石鹸が発売した中性の合成洗剤による粉末シャンプー「花王フェザーシャンプー」でした。
使用感の良さと扱いやすさで広く消費者に受け入れられた。当時はまだ多くの人が銭湯を利用していたため、1回分ずつに分包されたアルミホイル製の個包装は重宝された。
粉末発売ののち、昭和34年(1959)にはチューブ入りゼリー状タイプも発売された。
「5日に1度はシャンプーを!」とのメッセージに当時の洗髪頻度の低さがうかがえる。
振り子時計 ~ぜんまい式の時計から、正確な時間を刻む、便利な電池式トランジスタ時計へ~
昭和30年代までの掛時計は、ぜんまい式の振り子時計、いわゆる「ボンボン時計」が一般的でした。ぜんまいを巻き上げることで動力を得て、振り子の動きで時間を計測する時計です。昭和20年代から40年代にかけてぜんまいの巻き日数を延ばしながら時間精度を高めていきました。それと並行して電池時計の研究・開発も進められていました。昭和33年(1958)には振り子の動きを電気的に制御することで正確な時間を刻む電池式トランジスタ振り子掛時計が登場。煩わしいぜんまいの巻き作業から解放されました。
時計文字板に開いている2つの穴に巻鍵をさしてぜんまいを巻き上げる。2週間巻とは、ぜんまいを巻き上げてから2週間時計が動き続けるという意味。
- 働く - 通勤・仕事は分刻み -
高度経済成長は、農業中心から製造業・サービス業中心へという産業構造の転換を加速させました。農村から大都市に集団就職した少年少女が中小企業の重要な働き手となる一方、戦後の大学進学者の増加やサービス業の発展により「サラリーマン」が大衆化しました。学制改革で女子が大学に進学できるようになると、専門職・事務職に就く女性も増え、ホワイトカラーの共働き世帯も現れ始めました。また、大都市への人口集中と核家族化が進むことで住宅の需給が逼迫、郊外から都心に電車で通勤する人も増えました。
企業は「近代化」「合理化」を合言葉に、モータリゼーションによる物流のスピード化、生産や流通販売の効率化・機械化などを進めました。それは、働く人の仕事、時間、お金に対する感覚の変化につながりました。
このコーナーでは、企業の変化と、それに伴い大きく変わった日本人の働き方に焦点をあてます。
【郵便量の増加と二口ポスト ~昭和30年代以降、郵便物数の激増により、郵便輸送に求められた近代化と合理化~】
終戦直後には戦前の約3分の2まで激減していた郵便物数が、経済の復興と民生の安定につれて次第に増加し、昭和30年度(1955)には戦前の基準を超え、昭和40年度にはほぼ倍増しました。郵便物の激増により輸送力の増強が必要になりました。こうした情勢に対応するため、郵便輸送の体系にも近代化と合理化が求められました。
昭和24年(1949)に誕生した郵便差出箱1号丸型、いわゆる赤い丸型ポスト。差入口のある上部と取出口のある下部が別個に作られているので、設置場所の状況に応じて便利な方向に向けて据え付けることができる。
郵便物の区分を効率よく行うため、昭和36年(1961)9月27日、「都区内あて」「地方あて」という差入口が2つついた試作品の郵便ポストが設置された。写真右は速達郵便用のポスト。
【広がる交通網と通勤電車 ~相互直通運転、都心への乗り入れ。沿線の宅地開発の加速。鉄道駅から離れた場所でのバス運行~】
昭和32年(1957)9月、東武・営団(現・東京メトロ)・東急との3社間で「列車の相互直通運転に関する覚書」を締結、東武伊勢崎線と地下鉄2号線(日比谷線)への乗り入れが決定しました。昭和37年5月31日に北越谷~人形町間で相互直通運転を開始、都心への乗り入れが実現しました。日比谷線との直通運転開始を契機に、沿線の宅地開発は一段と加速。大量輸送時代に対応するため、昭和38年11月に、通勤電車の代表モデルにしたいという考えのもと作られた8000系車両が就役しました。
スタイルや技術面での派手さはないが、メンテナンスが容易で故障が少ないことが特色。基本性能のしっかりとした、通勤車として完成度の高い車両といわれている。
車内放送を行う機器
生活の句読点 ~簡便さを求める時代に、たばこの主流は両切からフィルター付き製品へ~
昭和20年代から30年代前半にかけては、「ピース」や「新生」といった両切紙巻たばこの新銘柄が人気を博していましたが、30年代後半には新種の紙巻たばこであるフィルター付き紙巻たばこが売上を伸ばしました。日本初のフィルター付き紙巻製品「ホープ」が発売されたのは昭和32年(1957)のこと。その後、昭和35年(1960)に発売された「ハイライト」は、軽い喫味と洗練されたパッケージデザインが若者を中心に支持されました。吸い口まで葉の詰まった両切と異なり葉が口に入らず、仕事や麻雀をしながら吸いやすいというフィルター付き製品の特徴もまた、簡便さを求める時代の空気とマッチしたのです。
たばこ小売店では他の日用品も売られ、店頭には公衆電話が置かれるなど、地域のよりどころにもなった。
昭和30年代には、たばこ自体を訴求する広告も出た。「今日も元気だ たばこがうまい」「生活の句読点」といった、現代にまで語り継がれる名コピーも生まれた。
- 遊ぶ - “休日”がやってくる -
昭和22年(1947)制定の労働基準法により、企業では毎週日曜定休が定着しました。季節に即した繁閑のサイクルに馴染んできた農村・漁村出身者にとっては、短周期で定休日があること自体が新鮮でしたが、週1日だけの休みのため、家でごろ寝という過ごし方がほとんどだったようです。家でのお供は、当時全盛だったラジオや次第に普及してきたテレビでした。
昭和30年代後半になると、人々の暮らしにも余裕が生じ始めます。「レジャー」という言葉が流行語となり、ボウリング場やスケートリンクが登場しました。レストランでの外食、百貨店での買い物など、すでに戦前に芽生えていた都市生活の楽しみが大衆化したのもこの時代でした。昭和30年代後半には、5~6割の世帯が1年間に1泊以上の旅行をするようになり、若者を中心にピクニック、ハイキング、海水浴、スキーなど、欧米流のアクティビティも流行しました。
このコーナーでは、休日を楽しみ始めた人々とそれを供給した企業の姿を紹介します。
豪華旅行も大衆化 ~高度経済成長期に本格化したレジャー。鉄道会社も需要に応え利益拡大を図った~
レジャーの多様化・大衆化時代の到来は鉄道会社にとっても好機であり、各社は車両の高性能化に力を注ぎました。東武鉄道は、昭和35年(1960)10月の1720系デラックスロマンスカー(DRC)就役によって、昭和20年代後半から続いていた日光への観光輸送をめぐる国鉄(現・JR)との主導権争いに終止符を打ちました。競争の中で生まれたスピードアップと設備のデラックス化は広く受け入れられ、行楽客の人気を博しました。また、観光バス部門の急速な需要拡大に伴い、サービス面での充実と向上を図るためバスガイドの養成にも力を注ぎました。
昭和35年(1960)に就役した1720系は、当時の車両技術の粋を集めたものだった。ジュークボックス付きのサロンルームを備えるデラックス車両として長らく東武鉄道の看板特急だった。
【ファッション・ウオッチでお出かけ ~時計が時間を表示するものとしてだけではなく、アクセサリーとして重視される時代に~】
昭和30年代に入ると、腕時計は時間を表示する本来の機能のほかにアクセサリーとしての要素がより重視されるようになりました。女性が自分の意思で各分野へ進出し始めた時代でもあり、服部時計店はこの時代性を踏まえて「セイコーホワイト」を発売、キャンペーンを実施しました。「セイコーホワイト」シリーズは、お出かけ用の2個目、3個目の時計として人気を博し、女優やデザイナーなど第一線で活躍する女性にも愛用されました。時代の先端をいく女性向けファッション・ウオッチの幕開けとなった商品でした。
【マッチラベルにみる余暇のいろいろ ~昭和30年代、オリジナルの図柄を配した広告マッチはノベルティの代表的な存在だった~】
もらう人にとっては訪れた場所の思い出となり、飲食店や旅館・ホテル、雀荘などでは、その場でたばこのお供にもなりました。一方、店にとってはPRも兼ねていました。マッチラベルを通して、当時の余暇のいろいろな姿が窺えます。