[奈文研コラム]達磨さんのおはなし
「日本最古」には事欠かない奈良の地だが、王寺町達磨寺の木造達磨座像【写真1】は、日本最古はよそに譲って、「日本で二番目(ぐらい)に古い達磨像」という、なかなかに奥ゆかしい地位を主張している。
この達磨座像にはその由来が書き込まれており、永享2年(1430)の年紀や、造像に時の将軍・足利義教が関わったことなどを伝える。足利義教といえば「万人恐怖」の恐怖政治で知られる。となれば、「日本最古」としておいた方が身の安全に良いようにも思う。
そこで、「日本最古の達磨像」を探すと、京都府八幡市円福寺の木造達磨大師坐像に行き当たる。八幡の地で語り伝えられてきたその由来は、こういうものだ。
大和国片岡達磨寺の聖徳太子お手製の達磨像を、戦乱を避けて八幡に運んだ。時は寛正の頃、1460年を少し過ぎた頃のこと。これが、円福寺の達磨大師座像である。
「日本最古の達磨像」は達磨寺から円福寺に運ばれた達磨大師座像で、「日本で二番目に古い達磨像」は達磨寺に今もある達磨座像。円福寺への運搬が1460年過ぎで、達磨寺達磨座像の造像が1430年。1430年作の達磨さんは達磨寺にずっといて、1460年に運び出された達磨さんもいる。折角語り伝えるなら、もう少し辻褄を合わせておいて欲しい。
そして伝承を紐解くと、達磨運び人は「片岡大和守光次」なる人物だという【写真2】。片岡氏は、現在の王寺町から香芝市にかけての地域に盤踞した中世武士団だ。興福寺別当尋尊に「天魔」と呼ばれた片岡雲門寺蔵主を輩出するなど、勢力を誇っていた。
さて、片岡氏の系譜は、奈良県内には数種類伝わる。いずれも近世のものだが、その内容が、全くバラバラ。唯一の共通登場人物が「片岡新介春利」。彼は、松永弾正久秀の大和侵攻を跳ね返した、戦国末期の片岡谷のヒーローだ。江戸時代の片岡周辺の有力者にとって、自家の系譜が、この片岡谷のヒーローと繋がっていることが重要だったのだろう。