【川端祐一郎】「知るかボケ!」と言いたくなるとき

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教)

先日編集部で、カミュの小説『ペスト』に関する座談会を行いました。雑誌の『表現者クライテリオン』に載るのは来月ですが、「表現者塾」の塾生の方には、近日中に動画で公開します。(入塾はこちらから)

『ペスト』についての詳しい論評は座談会のほうに譲るとして、この作品中でペストと格闘する人物たちと、いま新型コロナを目の当たりにして大騒ぎしている人々の姿を比較して、痛感したことがあります。それは、我々現代人が、「政策」はいくらでも語ることができる一方で、「人間」に関する論争ができなくなってしまっているということです。あるいは、政策論から人間論が排除されてしまっていると言っても良い。

『ペスト』は、1940年代にアルジェリアのオランという人口20万人の町で、ペストが大流行したという設定のフィクションです。都市封鎖が行われ、人がバタバタ死んでいくなかで、主人公の医師リウーらは有志で「保健隊」という組織を結成し、独自の方法でデータを収集分析したり、治療に使う血清を開発したりと奮闘し、多大な犠牲を伴いながら流行の終息を目指します。

この物語の主要な登場人物は、それぞれ大きく異なる価値観や人生観を背負いながらペストという共通の脅威に対峙していて、しかも、いずれの価値観・人生観にも相応の言い分がある。全員が同じ危機に直面してはいるのですが、悲観する者もあれば楽観する者もあり、神の思し召しだから災禍を受け容れよと言う神父がいれば、敗北をよしとせず闘いに着手する医者もいる。殆どの市民が日常の喪失を悲嘆する一方で、社会から疎んじられてきた外れ者は、むしろ日常性の破綻を歓迎し高揚している。

価値観や立場が違うので、保健隊のメンバーの間でも、このペスト禍にどう立ち向かうべきか、あるいはそもそも立ち向かうべきなのかどうかについて、たびたび意見は割れています。しかし彼らは皆、自分がどういう人生経験や人間観を持つ人間であるのか、それ故にこのペスト禍に対してどのような印象を抱いているのか、そして未来に何を期待しているのかを、それぞれが素直に語ります。そして言葉を尽くすことで、物別れに終わることなくコミュニティが成り立っていて、ペストとの闘いは継続されて行く。

「価値観が違っても一つの目標に向かってみんなで頑張る」というような凡庸な話ではありません。この作品の登場人物たちは、そもそも一つの目標を共有していると言えるのかどうかすら怪しいのです。
たとえば医師のリウーは、職人的な生真面目さで淡々と患者の看病と治療(といっても殆どなす術がないのですが)に精を出している。たまたまこの町を訪れたところで運悪くペスト禍に巻き込まれた新聞記者のランベールは、恋人のいる地元へ帰るため非合法な手段での脱出を目論んでいて、「愛より大事なものはない。命を救うなどというリウーらの目標は、抽象的な観念に過ぎない」と主張する。逃亡犯のコタールは、ペスト禍が終息すれば再び追われる身になる可能性が高いので、この非常事態が永遠に続いてほしいと願っている。

それでもオランという町は、あたかもそれ自体が一つの有機体であるかのようにしてペストの災厄と戦っている。これが、社会のリアリティというものでしょう。価値観も立場も大きく異なる人々が、それでも有機的に繋がって一つの物語を成しているように見えるのは、その「違い」を彼らが素直に言語化しているからであり、腹を割って話し合っているからだと私には思えます。そして今の日本に欠けているのは、そういう会話なのではないか、とも思ったわけです。

新型コロナの感染者数や死亡率などの統計は広く共有されています。しかし同じ数字を目にしても、リスクの感じ方は人それぞれですし、仮に同じようなリスク認識を持ったとしても、その上でどのような行動を望ましいと考えるかはまた人それぞれです。そもそも、死というものに感じる重みも人によって違う。さらに言えば、一人の人間が一つの価値観で動いているわけですらない。要するに、リスク認識にしても対処方針にしても、唯一の正解があるわけではないのです。

いま、社会活動の自粛に関して私自身の周りでも意見がある程度割れていて、家族の間でも友人の間でも、見解に幅があります。この幅は、事実認識の相違に由来する面もあるでしょうが、「新型コロナをどの程度怖いと感じるか」「自粛にどの程度の苦痛を感じるか」という感情的な違いも強く影響しているはずです。また事実認識にしても、政府発表や論文を読んで自分で考えるという人もいれば、「テレビの言うことを信じる」「掛かりつけのお医者さんの言うことを信じる」「息子の言うことを信じる」というような人もいるわけですが、何を信じるかというのも人生観の滲み出る決断の一つではあります。

厳格な自粛論者も、インフルエンザや結核や麻疹について同じレベルの自粛を求めたりはしておらず、要するにそこには何らかの線引きがあるはずですよね。新型コロナには、有力な治療薬やワクチンがなく、病原体の性質に未知の部分が多いという事情があるにはありますが、ほかの感染症でも現実に死ぬ可能性が存在し、不確実性も皆無ではない。つまり、突き詰めれば「治りやすさ」も「不確実性」も程度の差に過ぎず、どこに線を引くかの判断はやはり必要です。ではその線はどうやって引かれるのか?

自粛を唱えるにせよそれに反対するにせよ、前提として新型コロナの危険度に関する見解(仮説)を持つ必要があって、専門家であろうとなかろうと、自分なりのリスク評価を示さない限り対処方針を論ずることはできません。しかし完全に客観的な見解というものはあり得ないわけで、その脅威の評価には人それぞれの想像や感覚が織り込まれることになります。そして、伝染病の危険度や不確実性がどの程度であれば自粛が必要になるかという線引きも、「恐怖感」や「リスク許容度」という曖昧な感情に基づいてなされるとしか言いようがない。要するに、見ているデータが同じでも、自粛論者は「怖いウイルスだ」と感じ、反自粛論者はそうでもないという感覚的な差異が、判断中にどうしても混じっているはずです。

また自粛の中身に関しても、「飲み屋からは締め出すが、家族内の団欒までは禁止しない」というような判断の背後には、「苦痛」などの感情による曖昧な線引きがあるはずですよね。
線引きが曖昧であること自体は、何も悪いことではありません。私が言いたいのは、自粛するか否かという線の引きどころを決めているのは事実や論理だけではなく、「感情」や「人生観」も大きな役割を演じているのだということです。そして、いたずらに相対主義を唱える必要はないものの、感情や人生観に大きな個人差があるのは事実であり、その差異をめぐる議論も欠かしてはならないと思うのです。

今般の新型コロナ騒動では、客観的事実に関しても未決の論点が多々ありますが、仮にこのウイルスの危険度や振る舞いが完全に明らかになったとしても、対策の方針について唯一の正解を得ることはできません。ある人が神経質な性格で、またある人が無鉄砲な性質であれば、両者のあいだの相違は消えることがないからです。その上で良質な合意を形成するためには、双方が、自らの見解の土台となっている価値観や人生観を多少なりとも言語化した上で、感情論も含めた会話を重ね、「言いたいことを言ってスッキリしたし、あいつの気持ちも多少理解できたような気はする」というような境地に達するしかありません。

いま、報道や世間話に乗って聞こえてくる新型コロナ談義には、そういう人間論的な基礎が欠けているように私には思えます(なお、我々の『ペスト』座談会は、その基礎を確認する作業の一環です)。人間の感情というものの複雑さ、曖昧さ、多様さに目を向けず、あたかもそれが一枚岩であるかのような前提に立って、「どうだ俺の考えた方針のほうが合理的だろう」というような論争があちこちで交わされていて、それは不健全であると思うわけです。付け加えて言えば、新型コロナというやつが、人によって感情的反応が大きく割れそうな微妙なラインを突いてくる脅威だからまた厄介なのですが。

私自身は、そもそも病気というもの全般を舐めてかかっている人間で、楽天的で軽率な性格なので、そのうち事故か変な病気で早死にすると思います。その過程で人に迷惑もかけるでしょうから、正当化するつもりはありません。世の中には心配性の人がいることも知っているし、伝染病のリスクは自分だけのものでもないので、できるだけ気を使って生きようとは考えています。しかし感覚を変えるのが難しいということもまた、認めざるを得ません。新型コロナによる死者数の推移や病床の埋まり具合のデータをみても、どれだけワイドショーに煽られても、今の段階では大騒ぎする気になれないのです。

「国内で最大40万人が死ぬ」という説については、そもそも客観的(であろうと努めた上での)判断としても大げさな予測だと思いますが、仮に信じるとしても、「なるほど上限で40万人なのか」と妙に安心してしまう面もあるのです。南海トラフ地震では最大30万人超が死ぬとも言われており、もちろん防災インフラへの投資を進めて犠牲を減らすべきなのですが、「インフラが完成してリスクがゼロになるまで、5年でも10年でも、全員机の下か高台に隠れて自粛してろ」とはべつに思いません。途方も無い犠牲ではあるものの、かといって、防災のために躊躇なく暮らしを破壊するような道も、選択してはならんだろうと思うわけですね。

新型コロナの話に戻しますが、わかりやすく少し誇張して言うと、私のような人間は何の根拠もなく「俺にはもう新型コロナの抗体があるんじゃないか」というような感覚を持って生きています。もちろん馬鹿げたことだと頭では分かるのですが、これは拭い難い生活感覚であって、容易に変えることもできません。こういう楽観派の人間は、頭ごなしに「お前には危機感が足りない」というような説教をされると「知るかボケ!」と言いたくなるのですが、間違っているのはたいてい自分のほうなので、口には出しません。しかし、「知るかボケ」と思う感覚そのものは否定しようがなく、そういう輩が何割か混じっているのも人間社会というものではないでしょうか。

このとき、なぜ「知るかボケ」というような反発がこみ上げるのかというと、説教者が自分自身の人生観の土台を少しも示さずに「何百人も死んでるのだから自粛しないとね!」などと唱えるのは、自らの人生観への同意を暗に強要しているのに等しいからです。もちろん、人の世というのは多かれ少なかれ、人生観の押し付け合いの場ではあるわけですが、せめてそのことに自覚的であるべきだと言いたくなります。
じつは、客観性が求められるとされる学術研究や政策論争においても、原理的には、言説が「人生観」「価値観」「人間観」「世界観」といった主観的なフレームの制約から免れることはあり得ません。かつて西部邁先生が、社会科学の理論も「自分論」抜きには完成しないのだと指摘していましたが、原理的に言って、まったくその通りなのです。

私は、安全側に倒した自粛論だって、ひとつの立派な立場だと思います。ただ、「致死率が低いと言われても、肺炎で死んだ親戚を見ているのでとにかく怖いんです」とか、「自粛を唱えるなんて、クソ真面目でつまらない性格だと言われるかも知れませんが」というような話も聞きたいわけで、それがあればこちらだって、「私みたいな能天気の言い分は忘れてください。道連れにされたんじゃかなわないでしょうからね」となるわけです。保守派は「常識」を重んじますが、その常識というのは、特定の具体的な正解を指すわけではありません。むしろ、人生観を異にする者同士が、自らの立場を明らかにしながら相互理解を目指して語り合うという、会話の習慣や作法のようなものを言うのです。

先日のメルマガのコメント欄で拓三さんという読者の方が、「我々が中高年の目線で自粛論を語って、若者は尊敬してくれるだろうか。むしろ若者には、『自由に経済活動をやってくれ。経済はお前らに任した』と言ってやってこそ、彼らも中高年の話に耳を貸すのではないか」という趣旨のことを書いておられました。まさにおっしゃるとおり。エマニュエル・トッド氏は「社会の活力の尺度となるのは、子供を作れる能力であり、高齢者の命を救える能力ではありません」という身も蓋もない理由で自粛の解除を主張していますが、69歳のトッド氏にそう言われると、「いや子供たちだって、おじいちゃんが生きていてくれないと元気が出ないでしょう」と言いたくなるわけです。

(5/9追記 スウェーデンでは、子供の教育機会や貧しい親の事情などを老人の健康よりも優先して、社会活動を制限しない方針が取られており、他国に比べて死亡者がかなり多いので賛否両論のようです。が、興味深いのは、この「ノーガード戦法」に対する支持が、若者で4割なのに対し、高齢層では6割に達し、イメージとは逆になっていること。また、「他人に対する信頼感」の高い人ほど支持する傾向にあり、さらにこの信頼感が、スウェーデンは他国よりも高い。国論が二分されてはいるのでそのうち転換する可能性もありますが、少なくとも、スウェーデン国民が長年かけて築き上げてきた価値観・人生観・社会観が政策の方向づけに大きな影響を及ぼしていることは見て取れます。)

政策決定は、建前としては「一つの正解」に近いものであることを装う必要があります。しかしそれを「準・正解」として多くの人が受け取ることができるのは、政策論争に先立って、人間の感情をめぐる充実した会話の積み重ねがあってこそです。いま起きている政策論上の対立も、原因の少なくとも何割かは、その積み重ねを怠ってきたことにあるのではないでしょうか。

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