[奈文研コラム]唐子を連れる西王母について
台湾・台北市にある松山慈恵堂をご存知でしょうか。その豪華絢爛な大殿では、荘重な雰囲気と威容を備える瑤池金母(西王母)の真正面の坐像を参拝することができます。筆者のように、西王母イメージの源泉が主にこのような神像、或いは長寿を祝う中国工芸品【図1】に由来する人は、はじめて日本絵画の代表的な流派の一つである狩野派の西王母図を見る時に多少の衝撃を受けるでしょう。そこには、時に西王母とともに男児(唐子)が描かれているからです。
唐子を連れる西王母図の典型例としては、江戸時代初期の画壇領袖、幕府御用絵師の頂点に立つ狩野探幽(1602~1674)の《西王母図》【図2】が挙げられます。絵の状態と落款により、本作は、当時狩野派の最も隆盛な一流である木挽町狩野家で修業した狩野応信(1842~1907)が、探幽の寛文四年(1664)の作を写した幕末期の模本であることが判明しました。絵の中の西王母は、桃の実と桃の花が盛る盤を両手に持っている侍女と、西王母の裾を掴んでいる中国風の服装と髪型をしている男児(唐子)と共に描かれています。狩野派絵師による同じ構成の作品は他に、奥絵師(最も格式の高い幕府御用絵師)の家系の木挽町狩野家七代目・養川院惟信(1753~1808)の《西王母図》(1781~1808、個人蔵)と、同じく奥絵師の家系の鍛冶橋狩野家七代目・探信守道(1785~1835)の《西王母図》(19世紀前半、ボストン美術館蔵)が挙げられます。
私見の限り、中国の西王母に関する伝説では、西王母は女仙の母として登場しますが、男児との関連性は見つけられず、中国絵画に男児と共に描かれた西王母の作品も存在しないと認識しています。そのため、唐子を連れる西王母という図像の組合せは、日本での改変ではないかと筆者は推測しています。このほか、同時代の西王母と唐子が一緒に登場する事例としては、人形を用いて西王母の伝説を上演させる山車があります。何か手掛かりとなるかもしれません。