【川端祐一郎】「昭和的しがらみ」への嫌悪感と平成の改革主義
From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教)
数日前、とある労働組合の勉強会に呼ばれたのですが、雑談で、最近の組合運動や職場の様子について色々伺いました。以前からよく言われている話ではありますが、新卒採用の若者がなかなか組合に入ってくれなかったり(逆に中途採用の転職組は加入率が高いらしい)、入っていても昔に比べて活動には無関心だそうです。労働者としての待遇は切り下げられているのですが、組合の方針に賛成とか反対とかではなく、そもそも関心がない。
以前のメルマガで、リベラル派の政治運動の変質に触れたことがあります。
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181122/
60年代ごろまで各国の左派の運動が掲げていたのは、「人種や性別や階級の垣根を越え、皆で手を取り合っていい国を作ろう」というメッセージで、要するに「団結」「連帯」といったものを大事にしていた。ところが70年代や80年代になるとメッセージの個人主義化が進み、「1人1人が大切にされる世の中を目指そう」というような運動に変わってきたと言われます。しかしそういうメッセージの下では、「団結」を強く打ち出すことができないので、強力な運動組織を作るのは難しくなっていくわけです。
『表現者クライテリオン』に何度もご登場いただいている堀茂樹氏が、れいわ新選組などの急進的な左派の運動を指して、“組織(「しがらみ」)嫌いのバラバラの個人の群れで、新自由主義の裏返し”だと表現されています。
https://twitter.com/hori_shigeki/status/1201123536238043136
なるほどこれは分かりやすい描写だ、と思いました。
かつての「SEALDs」なんかも恐らくそうだったと思うのですが、新しいタイプの社会運動というものは、左派のものであれ右派のものであれ、あるいは政治と無関係のものであれ、古いタイプの「しがらみ」には距離を置いていることが多いと思います。現実には、運動を始めれば様々なしがらみが新たに生まれるはずですが、「しがらみ嫌い」の人が集まっていると、仮に強い情熱や理念を持って集まったのだとしても、長く継続するのは難しいだろうと思います。
この「しがらみ嫌い」という傾向は、社会運動にのみ表れているものでもなく、もっと広がりのある「時代の気分」になっていると私には思えます。組合活動どころか、「職場の忘年会」にすら参加しない人が増えているという話はよく聞きますね。濃度の高い「人付き合い」一般が、現代人には、暑苦しく、抑圧的で、無駄なものに見えているのでしょう。
この現代人の嫌悪の対象を、さしあたり「昭和的なるもの」とでも呼んでおくと、その輪郭がつかみやすいと私は思います。もちろん、昭和というのも単純な時代ではなかったし、人間関係が鬱陶しい「しがらみ」を伴うのは昭和に限ったことではありません。しかし、今の日本人のコミュニケーションの空間では、なんとなくですが、「昭和っぽさ」のイメージは共有されていますよね。そして「昭和的組織」「昭和的人間関係」と言えば、(表現者クライテリオンの読み手や書き手はそうでもないでしょうが)「古臭い」という否定的な印象を受ける人が多いだろうと思います。
上下関係などの古臭い道徳を語り、組織の団結を求め、根性論が好きで、1つの正解を押し付け、参加を断るのも抜け出すのも難しく、挨拶や根回しが欠かせず、自己犠牲を強要したり、時にはプライベートを詮索してきたりもする、「昭和的」な人間関係のあり方。ちょっと「昭和」を戯画化し過ぎでしょうけど(笑)、ともかくこれらは総じて現代人の好まない性質であって、そこから自由になりたいという解放の欲求は、かなり根強いものですよね。
そして労働組合のみならず、PTA、クラブ活動、自治会、同窓会、談合政治、終身雇用、業界団体、親戚の集まりなど様々なものが、この「昭和的」イメージと結び付けられ、嫌悪されているわけです。そう考えると、ここ30〜40年の社会的な変化というのは、イデオロギーとしての個人主義や自由主義によって方向づけられたというよりも、「昭和的なるもの」に対するもっと素朴な、「鬱陶しい」「面倒だ」「胡散臭い」といった反感が広く存在していたが故のものだと理解するほうが、正確かも知れません。
感情的・身体的なレベルで「反昭和」や「脱昭和」の方向付けがまずあって、その上で、学者は「市場主義」や「ポストモダニズム」の理論を語ってきたし、政治家や企業家は「昭和的な古臭さ」を攻撃することで大衆的人気を獲得することができた。それが、平成以降の日本だったのではないでしょうか。(正確にいうと、「高度成長期的なるもの」への反動が、オイルショックやベトナム戦争や公害問題などを挟んで昭和の最後の十年ぐらいに生じたのが契機だと思いますが、今の時点から振り返るのであれば大雑把に「昭和的」と呼んでおくほうが分かりやすいでしょう。)
竹中平蔵氏に象徴されるような「構造改革」路線や、大阪維新の会に代表されるような「コストカット」路線の政治が、なぜ支持されるのか。それは、市民の間に存在する、「昭和的なものは鬱陶しい」という感情を利用して、様々なものに「既得権」「非効率」「無駄」といったレッテルを貼ってきたからではないかと思います。
注意が必要なのは、そういう「改革主義」の攻撃対象となってきたものが、本当に市民の反感を買っているのかと言うと、そうでもない場合がかなりあるということです。たとえば小泉首相の「郵政民営化」や、大阪維新の会の「大阪都構想」(大阪市の廃止・分割)を考えるとわかりますが、多くの人は、べつに「郵便局」や「大阪市役所」に恨みを抱いているわけではないはずなのです。
ところが改革主義者は、攻撃対象を「昭和的しがらみ」のイメージに結びつける物言いが大変得意なわけです。そして「ここにまだ昭和が残っているぞ!」と言われてしまうと、その言葉に象徴されるものに鬱陶しさや胡散臭さを感じてきた現代人は、つい改革を支持したくなってしまう。これが平成の改革主義の正体ではないでしょうか。
私自身も人付き合いを面倒がるほうなので、昭和的な人間関係を「鬱陶しい」思う気持ちは理解できます。しかし過去40年ほどの歴史をみてもわかるのは、それを解体したところで、生きやすい世の中になるわけでは全くないということです。面倒な「しがらみ」を取り除いた上でなお社会秩序を作り上げようとすれば、そこに台頭してくるのは、苛烈な「競争主義」や神経質な「コンプライアンス主義」です。それらは新たな息苦しさにほかならず、適応できる人は限られています。
ベトナム反戦運動などを経たアナーキー的な時代の空気のなかで、70〜80年代のシリコンバレーのエンジニアたちは、「大企業には管理されたくない」「官僚的システムから人間性を解放すべきだ」と言って、雇用の流動化をむしろ望み、労働組合などは作りませんでした。その結果出来上がったのは、少しでも業績が低下したり契約違反があったりすると簡単にクビを切られるような、過酷なビジネス文化であった。その歴史を、社会学者のバーブルックらは早くも90年代初頭に皮肉たっぷりに描いています。
欧米でも日本でも、現代人は今のところ、この経験から何を学ぶべきかを総括できていないのが現状でしょう。これからどうしていけば良いのかについては、また改めて論じたいと思いますが、しがらみと共に暮らしてきた人間の歴史について議論する習慣をもち、その歴史を引き受けた上で、理不尽なところは少しずつ改善するという保守主義的な方向しかないと私は思っています。
今回私が確認しておきたかったのは、政策や思想のレベルでいくら新自由主義的改革の誤りを指摘しても、「昭和的なるものに対する根強い反感」という大きな問題を解決しない限り、改革主義者の物言いは今後も勝利し続けるのではないかということです。「時代の気分」を転換するのは最も難しいことですが、それができない限り、平成期の惰性から抜け出すことも不可能なのではないでしょうか。
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