神経細胞の活動から個人の価値判断を予測する 〜プロスペクト理論が脳で実現される仕組みをサルで解明〜
伝統的な経済学では、ヒトは合理的な判断に基づき行動することが前提となっています。しかし、実際のヒトの行動はそうではありません。例えば、宝くじの1等の当選確率は極めて低いのに、当たるかもしれないと思ってつい買ってしまいがちです。また、1万円持っていて2万円を得るのも、100万円を持っていて2万円を得るのも、利得は同じ2万円なのに、1万円から増えた2万円の方が大きな価値があるように感じます。このように、価値の主観的な感じ方は客観値からずれることが多いのです。
経済行動に関するヒトの主観を普遍的に説明するのが経済学のプロスペクト理論です。ノーベル経済学賞を受賞したこの理論の一部は、確率加重関数と価値関数から成り立っています。確率加重関数は宝くじの例のように確率判断が主観的に歪むことを示し、価値関数は金銭の価値が主観的に歪み、金額に正確には比例しないことを示します。この二つの関数の組み合わせでヒトの行動を説明します。
本研究では、美味しいジュースを得るためのギャンブルをするように訓練した実験動物のサルを用い、脳の「報酬系」と呼ばれる諸領域の神経細胞活動を測定しました。報酬系はギャンブルに関わる脳の領域で、その中でも眼の直上に位置する前頭眼窩野や脳の中央に位置する線条体に含まれる神経細胞の多くは、ジュースが当たる客観的な確率やもらえるジュースの客観的な量ではなく、プロスペクト理論によって予測されるサルの主観に応じてその活動を変えることが分かりました。そして、報酬系の諸領域に観察された神経細胞の活動パターンを数学的に組み合わせる(線形加算する)と、プロスペクト理論が予測するサルの主観(主観的な利得、主観的な確率)が再現されました。
これらの結果は、主観的な価値を生み出す情報を報酬系の諸領域の神経細胞が分散符号化して処理していることを示しており、これらの神経細胞活動から、個人の感じる主観的な価値を客観的に測定・評価することが可能になったことを意味します。
今回の発見をヒトに応用すれば、私たち一人一人が抱く多様な金銭感覚や確率の感じ方、成功した時の喜びなどが生み出される脳のメカニズムを理解する研究も進むと考えられます。これにより、多様な価値観を育み、認め合い、より多くの人が幸せを感じられる社会の実現に近づくことができると期待されます。
研究代表者
筑波大学 医学医療系 山田 洋 准教授
立命館大学 情報理工学部 坪 泰宏 准教授
研究の背景
伝統的な経済学では、ヒトは合理的な判断に基づき行動することを前提に理論が組み立てられています。しかし、実際のヒトの行動はそうではありません。例えば、宝くじの1等の当選確率は極めて低いのに、当たるかもしれないと思ってつい買ってしまいがちです。また、1万円持っていて2万円を得るのも、100万円を持っていて2万円を得るのも、利得は同じ2万円ですが、1万円から2万円増えた方が大きな価値があるように感じます。このように、主観的な感じ方は客観値からずれることが多いのです。ヒトが完全に合理的でなく、不合理であると行動経済学で言われる所以です。
経済行動に関するこうしたヒトの主観的な価値観を普遍的に説明するのが、経済学のプロスペクト理論です。ノーベル経済学賞を受賞したこの理論の一部は、確率加重関数と価値関数から成り立っています。確率加重関数は、宝くじの例のように確率判断が主観的に歪むことを示します。また、価値関数は、金銭の価値が主観的に歪み、金額に正確には比例しないことを示します。この二つの関数の組み合わせで、ヒトの行動を説明します。
プロスペクト理論は、ヒトの価値判断行動を良く説明する理論ですが、合理的とは言えない主観が、脳の神経細胞の活動からどのように生まれるのかについては、全く分かっていませんでした。このようなヒトの主観に関わる価値観が生まれる脳の仕組みを調べたのが今回の研究です。
研究内容と成果
本研究チームは、マカクザル(以下、サル)に人と同じようにギャンブルを行うための訓練を実施し、ギャンブルに関わる脳の報酬系 注1)と呼ばれる複数の領域の神経細胞活動を測定しました。
実験では初めに、実験動物として飼育するサルに、ヒトが行うのと同じようなギャンブル(くじ引き)を繰り返し経験させます(図1)。ここでは、ヒトで用いるお金の代わりに、ジュースなどの飲み物を報酬として用います。このくじでは、報酬の量とその報酬がもらえる確率が、別々の色のパイの数で示されます。10カ月ほど訓練すると、サルはくじが意味する“確率”とジュースの“量”を理解し、できるだけ多くの報酬を得られるようにギャンブルをするようになります。つまり、サルもヒトと同様に、できるだけ儲かるようにくじを選ぶようになるのです。
実験では次に、確率と報酬の利得に基づいたサルの判断行動が、どのような主観に基づいて行われているのかを、経済学のプロスペクト理論に基づく数理モデルを用いることで推定しました。その結果、サルの主観はジュースの利得とそれを得られる確率のどちらも直線で示す客観値からずれており、上に凸の数学的な特徴で表現されることが分かりました(図2)。
このようにサルの主観をプロスペクト理論で測定可能とした後に、脳の報酬系 注1)の神経回路のうち、ギャンブルを行うことに関わるとされる大脳皮質の前頭眼窩野 注2)や大脳基底核の線条体 注3)における神経細胞の活動を測定しました。そして、記録した一つ一つの神経細胞の活動が、プロスペクト理論を反映するのかをまず調べました。すると前頭眼窩野中央、背側線条体、腹側線条体で、サルの主観を反映した活動(図3)が観察されました。これらの主観を反映する活動パターンを数学的に組み合わせる(線形加算する)と、プロスペクト理論が予測するサルの主観(主観的な利得、主観的な確率)を再現することができました(図4)。これは、脳の神経細胞がくじの情報を脳の複数の領域で分散符号化 注4)して処理していることを示しています。そして、脳の神経細胞の活動を測定することにより、個人の感じる主観を客観的に測定・評価することが可能になったことを意味します。
今後の展開
今回の発見をヒトに応用すれば、私たち一人一人が抱く多様な金銭感覚や確率の感じ方、成功した時の喜びなどが生み出される脳のメカニズムを理解する研究も進むと考えられます。これにより、多様な価値観を育み、認め合い、より多くの人が幸せを感じられる社会の実現に近づくことができると期待されます。
■参考図
図は、モニタを使ってサルに提示された行動課題の流れを示す。サルが中央の点を見ると、くじが現れる。その後、刺激が消え、くじの結果が与えられる。くじの上半分の緑色の区画はジュースの量を意味する。パイの区画1個分が0.1mlを意味し、0.1ml(1個)から1.0ml(10個)まで区画の個数が変化する。下半分の青色の区画は、提示されたジュースの量が当たる確率を意味する。この図の例では、0.5mlのジュースが、70%の確率で当たることを意味する。残りの30%の確率でサルはジュースを得ることができない。サルはくじが二つ提示された場合には、それぞれの確率と利得を見比べて、一つを選ぶ。
プロスペクト理論の数理モデルを用いて求めた、サルの主観(A:利得、B:確率)。実験に用いた2頭のサル(SUN、FU)のそれぞれで求めた。
(A)プロスペクト理論の数理モデルを用いて求めた、サルの主観を反映する神経細胞活動の一例。数理モデルの予測値を示した。3次元プロット(左)と2次元の等高線プロット(右)。(B)神経細胞活動の活動に現れた主観を確率と量ごとに別々に示した(左:利得の量、右:確率)。
(A)サルの主観を反映した5種類の細胞活動(1層)を線形加算することで(2層)、これらの神経細胞活動からサルのギャンブル行動をシミュレーションした(3層)。(B)シミュレーションの結果から再現したサルの主観(色付き)。効用と確率荷重の両者共に上に凸の関数型を示した(左:利得の量、右:確率)。
■用語解説
注1)報酬系
前頭葉や大脳基底核など、お金や食べ物などの報酬に関係して活動する脳神経回路。
注2)前頭眼窩野
脳のうち、眼の直上に位置する大脳皮質の領域の一部。
注3)線条体
脳の中心に位置する神経細胞の集まりの一部。腹側部、背側部などに分かれる。
注4)分散符号化
脳の中の幅広い領域にまたがって、情報処理が分散して行われること。情報処理の方法の一つ。
■研究資金
本研究は、以下の研究資金にサポートされて実施された。山田:日本学術振興会(JSPS)科学研究費(Grant Numbers JP:15H05374, 19H05007, and 21H02797), 武田科学振興財団、成茂神経科学研究助成基金、科学技術振興機構(JST)ムーンショット型研究開発事業・目標9「2050年までに、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現」「脳指標の個人間比較に基づく福祉と主体性の最大化」(PM松元健二 玉川大学(JPMJMS2294))。 坪:日本学術振興会(JSPS)科学研究費(19K12165)。Agnieszka Tymula: Australian Research Council Discovery project (190100489)。
■掲載論文
【題 名】A neuronal prospect theory model in the brain reward circuitry(脳の報酬を処理する神経回路がプロスペクト理論を実現する仕組み)
【著者名】 Yuri Imaizumi, Medical Sciences, University of Tsukuba, student
Agnieszka Tymula, School of Economics, University of Sydney, Professor
Yasuhiro Tsubo, College of Information Science and Engineering, Ritsumeikan University, Associate professor
Masayuki Matsumoto, Division of Biomedical Science, Faculty of Medicine, University of Tsukuba, Professor
Hiroshi Yamada, Division of Biomedical Science, Faculty of Medicine, University of Tsukuba, Associate professor
【掲載誌】Nature Communications
【掲載日】2022年10月4日
【DOI】 10.1038/s41467-022-33579-0