[プレスリリース]石神遺跡の発掘調査(飛鳥藤原第214次調査)
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概要
第1次調査で未検出であった区画塀等の遺構を新たに検出した。特に7世紀前半の石組溝と一体的に機能したと考えられる区画塀を確認し、7世紀前半の石神遺跡の区画東南隅があきらかとなった。これまでの調査を通じて、石神遺跡の明確な区画の「隅」を初めて確認し、7世紀代の石神遺跡全体の構造や変遷を知るうえで、重要な手がかりを得た。
1. 調査の経緯と目的
石神遺跡は斉明朝の漏刻(水時計)跡である水落遺跡の北側、飛鳥寺の北西に位置し、かつては飛鳥浄御原宮推定地と考えられていた。また、その東南部にあたる小字石神の水田は、明治35・36 年(1902・1903)に石造物(須弥山石・石人像)が出土したことで知られ、昭和11 年(1936)には東京帝室博物館の石田茂作が、石造物の性格究明を目的とした発掘調査をおこなった。このときの調査で、石田は「敷石遺蹟」と石組の溝、「井戸」などを発見し、後年これらが『日本書紀』斉明天皇5年(659)3月条にみえる、陸奥・越の蝦夷への饗応の場の遺構であると考えるにいたった(石田1972「飛鳥の須弥山遺跡」『飛鳥随想』)。石神遺跡を斉明朝の饗宴施設とする遺跡観は、この石田説に端を発している。
奈良文化財研究所はこれまで、石神遺跡の継続的な発掘調査を実施してきており、調査面積は延べ14,500 ㎡に達している。その第1 次調査(1981)の調査地は、石造物が出土した水田で、調査目的は昭和11 年の発掘調査で見つかった遺構を再確認することであった。この調査では石田茂作が発見した遺構を再検出し、所期の目的を果たすとともに、飛鳥時代の掘立柱建物や東西塀などを新たに検出した。また、その2年後に西側隣接地で実施した第3次調査(1983)では、石神遺跡と水落遺跡とを隔てる東西掘立柱塀SA600(後述の東西塀1)と、その後身の区画施設であるSA560(後述の東西塀3)を新たに検出するなど、大
きな成果を挙げた。しかし第1次調査では、これら掘立柱塀の柱穴を検出していなかったため、石神遺跡の範囲を確定するうえで大きな課題となっていた。
来年度刊行予定の正式報告書の作成業務を進めるなかで、この課題の解決が急務となったことから、今年度は土地所有者をはじめとする地元の方々のご理解を得て、第1次調査区の再発掘に着手した。飛鳥藤原第214 次調査は、石造物出土地における実に3度目の発掘調査である。再調査は未検出遺構の確認に必要な範囲を中心とし、第1次調査区の西半分を主な調査対象とした。
2. 調査の成果
調査区中央付近の東西約15m、南北約2m にわたり、平安時代の遺物包含層が帯状に残存していた。加えて、調査区南半には広域にわたり、奈良時代以降の自然流路(SD310)の砂礫層が広く残されていた。今回の調査では、これら後世の堆積物を部分的に除去し、第1次調査で検出した遺構の再検出をおこなうとともに、7世紀代の各遺構を新たに検出した。以下では時期ごとに検出した遺構について述べる。
(1) 7世紀前半の遺構(皇極朝期以前、遺構変遷図①②)
石組溝1(SD335)
調査区中央部で再検出した7世紀前半のクランクする石組溝。昭和11 年に発見されたもので、南北方向の約21m 分を確認した。溝幅は内法で約1.2m、深さ
は1.0m。側石には幅30~70cm、高さ30~40cm の自然石を用い、3~4 段を横積みする。底石はない。調査区外に続き、北方で折れ曲がり、東西石組溝(SD435)となる。
東西塀1(SA600)および南北塀1
調査区西北部で新たに検出した塀で、西の第3次調査区から続く7世紀前半の石神遺跡南限をなす。調査区内では東西塀1と南北塀1の柱穴
をあわせて5基新たに検出した。柱間寸法はいずれも約2.5m。石組溝1との位置関係から、東西塀1は調査区内で北折して南北塀1となる。石組溝1と同時期の遺構とみられ、両者は7世紀前半の石神遺跡東南隅を区画する施設と考えられる。
東西塀1の東西長は西の第3・10 次調査区内で検出した一連の遺構(SA600・SA1600)を含めて約102m となり、さらに西へ続く。南北塀1は石神1990-1 次で検出した東西塀(SA1460)に接続すると推定され、南北長は約58m と考えられる。北の第21 次調査(飛鳥藤原第156 次)では、7世紀前半の東限区画塀と推定される遺構(SA4327)を検出しており、南北塀1の北延長線上はこの東限付近に至るため、さらに北進する可能性もある。
東西塀2
東西塀1の東に続く区画塀。6基の柱穴を新たに検出し、調査区外の東へ続くとみられる。柱間寸法は2.5m 前後。石組溝1の側石を壊しており、石組溝1よりも新しく、遺跡東南部の区画が7世紀前半の間に東へ拡張したことを示している。西の第3・10 次調査区内の検出分(SA600・SA1600)を含めると、東西長は117m 以上となる。
(2) 7世紀中葉から後半までの遺構(斉明朝期)
石組溝2(SD330・331)
調査区西南隅で再検出した石組溝で、昭和11 年に発見されたもの。南北方向の石組溝(SD330)を約6m 分、東西方向の石組溝(SD331)を約3m 分
確認した。西の第3次調査区に続き、さらに北折する。溝幅は0.7~0.8m、深さは0.7m で、側石は高さ60~70cm、幅50~60cm の一枚石を縦に並べた最下段が完存するものの、上部の数段分は削平を受けているとみられる。溝底は径20cm ほどの河原石を敷く。石組溝1とは側石の立て方や底石の有無など、溝の構築方法が異なり、また出土遺物の年代観にも差異が認められることから、石組溝2は石組溝1よりも新しい時期の遺構と考えられる。
石敷(SX327)
調査区東北隅において東西約9m、南北約3mの範囲で再検出した石敷。北隣の第2次調査区で検出した南北棟建物(SB400)の周囲に敷設されたもので、敷石は径10~20cm の河原石を用い、平坦面を造るように据えている。石敷南端は自然流路の浸食により壊されている。石組溝1を覆う整地土の上面に敷設されており、7世紀中葉から後半までの遺構と考えられる。
東西塀3(SA560)
東西塀1・2の南約1.3m の位置で再検出した東西塀。第1次調査で一部検出していた遺構である。調査区西端の柱穴3基を新たに検出した。調査区外の東
へ続く。柱間寸法は約2.5m。第1次調査では、東西塀3の一部と後述の東西塀4をあわせて桁行5間、梁行1間の東西棟建物(SB325)としていたが、それぞれの柱穴を比較すると、深さや埋土が異なり、今回の調査では、建物ではなく別々の塀と理解した。
東西塀3は、西の第3次調査区では基壇をもつことが確認されているが、今回の調査区内では大きく削平を受けており残存していない。西の第3・10 次調査区での検出分を含めると、総長は約128m に及び、東西塀3は7世紀中葉から後半までの石神遺跡の南限を示す区画塀と考えられる。
東西塀4
調査区東半中央部で再検出した東西塀。第1次調査で検出された遺構である。先述のとおり、今回の調査では東西棟建物ではなく、単独の塀として認識した。調査区内では5基の柱穴を再検出し、調査区外の東にさらに1基存在する。柱間寸法は約2.5m。