台湾海峡の平和が世界の焦点に!なぜ台湾は超親日国なのか?

『日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景』楊 素秋著  桜の花出版

国交がないのに、いつも日本に気持ちを向けてくれる台湾の人々

2021年4月16日、日米首脳会談が行なわれました。米バイデン大統領が就任後対面で行なう初めての首脳会談であることで注目を集めましたが、その共同声明に、およそ半世紀ぶりに台湾の文言が盛り込まれました。
また、2020年、新型コロナウィルス感染初期に、マスクの在庫がリアルタイムで確認できるアプリ「マスクマップ」を若き官僚、オードリータン氏が開発し、あっという間に感染症対策に成功し注目を集めました。オードリータン氏の優れた資質と、それを抜擢した台湾政府の優秀さが光りました。それもそのはず、最新の世界デジタル競争力ランキング(スイスの国際経営開発研究所(IMD)調べ)では、台湾11位、日本27位です。
何かと話題の台湾は、大変な親日国です。
台湾は、東日本大震災の時、どの国よりも早く助けに来てくれ、250億円以上の義援金を寄付してくれました。また2020年4月、マスク不足で世界中が大騒ぎになったとき、 台湾は日本にサージカルマスク200万枚を無償で提供してくれました。台湾と日本はいつも、震災の際は互いに援助しあい友好を深めてきました。
なぜ、台湾がこれほど親日なのでしょうか? 本書を読むと、その歴史的背景が分かります。
著者の楊 素秋さんは、戦前の日本統治時代に生まれ育ちました。本書では、日本統治時代、そして中国本土から国民党政権がやって来てから台湾の人々が経験した苦悩を、自身の体験として語っています。筆者の飾らない文章からは、日本統治下・戦時下の台湾の人々と周囲にいる日本人たちが、協力し合い共に生きる様子が伝わってきます。楊 素秋さんは、1932年生まれの89歳。時々訪日し、講演活動を行なっています。

『日本人はとても素敵だった』17頁より
『日本人はとても素敵だった』17頁より

古き良き日本時代

『日本人はとても素敵だった』(44頁)より、日本統治時代を懐かしむ楊 素秋さんの声をご紹介しましょう。

古き良き日本時代

私は昭和七年九月、台湾南部の都市、台南市で生まれました。日本の台湾統治が始まって三十八年目のことでした。
ちょうど一年前の昭和六年九月には、満州事変が起こっており、翌年三月には「満州国」が建国されました。同年十月に、国際連盟が満州国を否定すると、連盟の創立国であり常任理事国でもあった日本は、国際連盟を脱退し、日本を取り巻く国際情勢が騒然としてきた頃のことでした。
小鳥が生まれて初めて見たものをお母さんだと思うように、私も日本を母国と感じていました。もちろん、子供時代は自分のことを日本人だと信じて疑っていませんでした。名前も、昭和十五年の改姓名によって楊素秋から弘山喜美子という日本名をもっていました。
本章では日本統治時代のことを述べていきますが、ひと言で言うと、日本時代は、私にとってパラダイスでした。良いことだらけで何から話してよいか分からない、と言って信じてもらえるでしょうか。
私が生まれた台南は、昔、都が置かれお城があった名残から、「府城」と呼ばれていました。中でも「台南府城」の出身というと、台南の中でも城壁に囲まれた中心街の出身ということを表し、ここの出身者はプライドがありました。私は、その「台南府城」の出身です。台北が東京に喩えられるのに対して、台南はよく京都に喩えられます。台南の人々はエレガントで言葉が優雅なのです。もっとも、完璧主義でこだわりがあるのが欠点で、一般には台南出身者はケチで堅苦しくてうるさいという風に言われてもいます。
日本時代の台湾は、町全体が豊かで、特に台南はゆったりと時間が流れているようでした。よく町の孔子廟では、詩人や文人が詩を作ってお互いに交換しあって楽しんでいました。
非常に安定した社会で、隣近所とは互いに信頼し合い、相互の信頼関係、人と人との絆が素晴らしかったのです。ですから、どこに行っても安心出来ました。それこそ枕を高くして寝ることが出来る世の中でした。
一方、今はどうでしょう。外を歩いていて何か話しかけてくる人があると、警戒心と不信感がまず頭をもたげてしまいます。
また、現在の台湾の町並みを見てもらえば分かりますが、どの家にも鉄格子が付けてあります。まるで、自分で作った牢屋に自分で住んでいるかのようです。
私の家もマンションの玄関のドアが二重にしてあり、窓には鉄格子がしてあります。それでも、空き巣に綺麗に洗いざらい盗られたことがありました。私は鉄格子の無い家に住みたいとつくづく思うのです。鉄格子の無い家で、戸締まりをしなくても安心して眠ることが出来た日本時代に戻りたいのです。道端で品物を拾っても、決して自分のものにすることのない時代にしたいのです。
日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。

日本から多くの教育者が台湾に渡った

当時、日本政府は、台湾の教育に多くの資金と人材を投入しました。『日本人はとても素敵だった』(84頁)より

愛情に溢れた先生たち

日本人の先生方の素晴らしかった点として、自然に接して教えてくれたことが挙げられます。その人の長所をちゃんと分かってくれ、まるで双葉を大きくするように育ててくれました。
例えば、ピアノが出来る人には、ピアノの演奏をさせたりするのです。また、顔が綺麗でリズム感がある人には踊りを教えてあげたりといった具合です。そういう所が一人一人の自信につながりました。
国民学校の時、私が接した先生の四人が四人とも、その子の長所を発見して伸ばしてあげようという先生でした。師範学校は、教育のあり方を追求するという思想の下に設けられた学校ですから、私は本当に幸せだったと思っています。
ただ覚えろ、試験で百点をとるためにとにかく覚えるだけ覚えろ、という感じでは全くありませんでした。ですから、学校に通うのは何よりも楽しいことでした。
昔の先生は本当の「先生」でした。ただ、一足す一は二と教えるのではないのです。一足す一はすなわち二ではない、一かもしれない、零かもしれない。あるいは三になったり四になったりすることがある。そういう生きた教育でした。
学校では出来る子も出来ない子もいましたが、先生は親身になって分け隔てなく教えてくれていました。出来ない人を馬鹿にするようなことはありません。とにかく助けてあげるという気持ちが表れていました。出来なかったら生徒同士もお互いに教え合いましたし、先生もそうなるように努力していました。とにかく、自分の受け持ちの子は全部一様に大きくなっていけるように、というような信念というか目標というか、考えがあったらしいのです。
しかし、優しいだけではなく、厳しい面もありました。日本の先生は、時々拳固を振るうこともあります。女の子に対してはビンタを張ることもありました。しかし、腹が立って感情に任せてするのではなく、その子が絶対に悪いことをしたという場合に限られていました。よほどのことでなければ生徒を叩くことはありませんでした。
子供を正すために叩くというのは、生徒に対する愛情がなければ出来ないことです。親が子を思うような心がなければ、あのように叩けるものではありません。ですから、終われば先生はけろっとしていましたし、生徒も先生の愛情を感じて、自分が悪かったのだと反省をするのです。叩かれた子の親も、叩いて頂いて有り難うございます、と心から思うのです。
今、過去を振り返って日本人の先生のことを思うと、愛でもって子供たちの行く先を案じるという気持ちがなかったら、あのような教え方は出来なかったに違いないと思うのです。
先生のお給料は少ないのです。その自分のなけなしのお金の中から子供に何か食べさせてあげるということが、今の先生に出来るでしょうか。
逆に、今の先生は子供の両親からお金を取ろうと狙ってばかりいるのではないでしょうか。現に台湾では、先生が自分の家で補習班(塾)を開いて親からお金を取っています。そのようなアルバイトをすることは、台湾では本当はいけないことです。でも、していない方がおかしいぐらい、先生はアルバイトに精を出しています。とても日本時代では考えられないことです。

『日本人はとても素敵だった』97頁 昭和15年ころの台湾 小学生の「お作法」の授業
『日本人はとても素敵だった』97頁 昭和15年ころの台湾 小学生の「お作法」の授業

『日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景』

本書は、シリーズ日本人の誇りの第一弾で、ロングセラーです。

出版社 : 桜の花出版 (2003/12/5)
発売日 : 2003/12/5
言語 : 日本語
単行本 : 283ページ
ISBN-10 : 4795276897
ISBN-13 : 978-4795276895
寸法 : 18.2 x 12.8 x 1.6 cm
価格 : 1,430円


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