【柴山桂太】社会崩壊を防ぐために
From 柴山桂太(京都大学大学院准教授)
新型コロナウィルスが世界中に混乱の種をばらまいています。中国武漢での「謎の肺炎」が報道されたのは今年1月。それから3ヶ月あまりの間に、人の移動は止まり、経済はほぼ停止状態になり、地球上で三〇億人以上の人が都市封鎖の状態に置かれるという異例の事態に発展しました。
状況が刻々と変わる中で、今起きていることの全体像を見渡すのは非常に難しいのですが、今の時点ではっきりしてきたことがあります。以下、4つの項目に分けて整理してみます。
1.まず、今回のコロナ禍はグローバル経済の脆弱性を、誰の目にも明らかにしました。国境を越えた人の移動は制限され、企業のサプライチェーンは寸断され、世界経済は大混乱に陥っています。
グローバル化の本質は、国際分業にあります。各企業が専門性を高め、グローバルな供給網を形成することで生産の効率性を高めていく。それを可能にしたのが情報通信技術の発展であり、国際的な協調体制であり、その下での各国の市場開放政策でした。
この体制の下では、企業も消費者も「在庫」を持とうとしません。備蓄のために倉庫代を払うよりも、ジャストインタイムで生産するほうが効率的だ。家に生活物資をストックしておく必要はなく、欲しければスーパーやコンビニに走ればいい。行政も無駄を極力少なくするという至上命題の下で、人員削減や非正規への代替を進めてきました。
今回、その全てが仇になっています。部品の供給網は寸断され、生産が停止してしまう。各国は競ってマスクなどの必要物資を囲い込むようになる。あわてて買いだめに走る消費者の行動で、流通が混乱してしまう。行政は圧倒的な人手不足に陥り、今後は危機対応の政策にも支障が出てくるかもしれない。平時における効率の追求が、パンデミック状況の下ではおそるべき非効率を発生させることになったわけです。
日本人は、東日本大震災で今と似た状況を体験していたはずです。平時には無駄に思えるものも、危機には役立つことがある。その教訓から、日頃の備えを強化し、経済全体でのレジリエンスの強化を急ぐべきだと、われわれも提言を続けてきました。
ところが「喉元過ぎれば…」のたとえ通り、ふたたび大きなパニックに襲われてしまった。しかも今回は、供給網の寸断が世界全体で生じていますので、その影響はこれからますます大きくなるでしょう。特に食料は、すでに生産国で囲い込みが始まっていますので、これから深刻な問題を引き起こす可能性があります。
2.コロナ禍が過ぎ去った後、世界は元通りの姿に戻るでしょうか。その可能性は低いと思います。特に人の移動については、これからパスポートやビザだけでなく、ウィルスに感染していないことを示す証明書のようなものが各国で求められるようになるかもしれません。実際、東京五輪は、そのような対策なしには実行不可能になるのではないか、と思われます。
すでにひび割れが始まっている国際協調体制は、これからますます崩壊の危機に直面していくでしょう。WHOの指導力欠如は、人々の国際機関への不満を否応なく高めています。トランプ政権は中国への批判姿勢を強め、中国が猛反発するなど、米中の対立はこれから拍車がかかると予想されます。欧州でも、財政支出の負担をめぐってふたたび国家間の対立が激しくなることが予想されます。
グローバル化は、情報通信技術の進歩という物理面だけでなく、各国の協調体制や市場開放などの政策面によっても支えられています。技術の進歩はこれからも続く(オンライン化対応をめぐって新たな経済機会も生まれる)でしょうが、政治の混乱はこれから大きくなると考えるのが自然です。二〇〇八年の世界金融危機によって露わになり、二〇一六年のブレグジット・トランプで加速した脱グローバル化への動きは、これから世界の秩序を様変わりさせていくはずです。
3.新型コロナウィルスをめぐって、今や誰もが即席の疫学者になっています。医療崩壊を起こさないために何が必要なのか。専門家と非専門家が入り乱れて、テレビやSNSを舞台にさまざまな議論が交わされています。
しかし長期的に見た時、恐ろしいのは医療崩壊ではなく「社会崩壊」ではないでしょうか。自宅待機を余儀なくされた人々は、テレビやSNSを通じて情報の洪水を浴び続けています。すると、少しの不道徳が許しがたいものに思えてくる。ある大学でクラスター感染が起きたとなれば、抗議の電話が殺到する。売り上げが落ちた事業者に給付金を配ると決まれば、不正受給が出たらどうするんだと炎上する。コロナ禍に対して社会が一体とならなければならない時に、分断と対立を煽る言葉の暴力が、人々のストレスを養分として巨大に膨れあがってしまいました。
欧米社会では、アジア人差別が日増しにエスカレートしていると聞きます。セーフティーネットが脆弱な国では、これから社会秩序の深刻な崩壊が起きるかもしれません。もちろん、日本で他人事ではない。ネオリベ社会の中で広がった、都市と地方、老人と若者、富裕層と貧困層、エニウェア族とサムウェア族の亀裂が、さらに広がっていくおそれがあります。
政府の緊急経済対策では、家計への経済対策として低所得層向けの給付金を配るとしています。こうした世帯の消費性向が高いことや、格差是正などを考えれば、この選択しかないと政府は考えているのでしょう。しかし、ただでさえ社会の分断が広がっているときに、わざわざ不公平感を高める政策を打つ必要が一体どこにあるのか。
コロナ禍の影響は、社会のあらゆる部分に及びます。今は飲食業や観光業など、特定の部分に被害が集中しているかもしれませんが、あと一月もすれば経済全体にその影響が及ぶようになるでしょう。家計も同じです。今は貯蓄を切り崩して生活費に充てている世帯も、いずれ手持ちが尽きてしまう時が来ます。社会の大部分がそうした不安を抱えている時に、現金一律給付を選択肢から排除しようとする政府の方針には、強い疑問を抱かざるをえません。
麻生財務大臣は、リーマンショック後の二〇〇九年に実施された現金一律給付が「失敗だった」という主旨の発言を繰り返しています。給付が消費を刺激せず、貯蓄に回ってしまったというのがその理由です。しかし、これはまったく誤った診断と言わなければなりません。前回の給付が消費に回らなかったのは、単純に金額が少なすぎたからです。
しかも今回は、10年前とは危機のあり方が違います。前回求められていたのは、落ち込んだ消費を上向かせるための「経済政策」でした。しかし今は違う。自粛や自宅待機が要請されている現状で、現金を配ったからといって買い物や旅行に行かないのはわかりきったことです。現金給付は貯蓄に回るでしょう。しかし、それの一体何が問題なのでしょう。
普通の生活が送れなくなり、いつまでこの状態が続くのかを誰もが不安視している時に必要なのは、「経済政策」ではなく「社会政策」です。政府による現金一律給付は、「この危機を一体となって乗り切ろう」という国民へのメッセージとなりうるのではないか。
医療崩壊を防ぎ、社会崩壊を防ぐ。そのために出来る政策手段は全て動員しなければならないはずです。「経済対策」は、自粛や自宅待機が解消に向かってからいくらでも打てばいい。政策がGDPの押し上げにどれくらいの効果を発揮するかを計算すればいい。しかし、今はまだ、その時ではないはずです。危機に瀕しているのは経済である以上に、その土台となる社会である。そのように考えれば、現金一律給付は、すぐにでも実施すべき政策と言えます。
4.最後に、次の問題にも触れざるをえません。それは今回の危機の本質が、「死」をめぐるわれわれの態度にある、ということです。
高度な文明生活を送るわれわれにとって、日常生活で死に触れる機会はそれほど多くありません。ところが感染症の拡大によって死が、急に視界に表れる。病気や事故、寿命による死ではなく、誰にうつされる分からない未知の感染症によって死ぬかもしれないという想像力が、いきなり作動しはじめたわけです。
病気や事故であれば、自分の責任だと割り切れる部分があります。しかし、感染症は違う。自分は衛生に気をつけているのに、どこの誰とも知れぬ者がウィルスを運んできてしまう。自分の不養生や不注意によるのならまだしも、見知らぬ他人のせいで死の可能性を突きつけられるのは我慢がならない。新型コロナ対策をめぐって世論が沸騰しているのも、その過程で社会の亀裂が大きくなっているのも、つきつめればそのような想像力が働いているからと言えるでしょう。
死は、思想的にも感情的にもきわめてデリケートな問題です。人は誰しも、死の可能性と向き合い、死についての考えや覚悟を持っています。それに口を挟むのは難しい。ただ、一般論としていえば、感染症による死(の可能性)を、他人への怒りや憎悪に転化するのは健全な精神のあり方ではないと思います。
そもそも、われわれの生の可能性は、見知らぬ他人によっても支えられています。人生の成功も失敗も、自分一人の才覚や責任でのみ決まるものではなく、見知らぬ他人が運んでくれる機会や利益にも(大なり小なり)依存しているはずです。ところが個人主義の価値観は、われわれの視界から他人との目に見えない関わりを切り落としてしまう。社会は、そうした「閉じた個人」の集合体であるかのように錯覚されてしまうのです。
そのような価値観の下では、ウィルスによる死の増加も、誰かのせいとされてしまうことになります。ある場合には外国人が、別の場合には(自粛要請に従わない)若者や水商売の人たちが、あるいは社会のどこかに潜んでいる「不道徳」な者たちが、という具合に想像力が拡大し、自らの生の可能性を不当に縮めた(あるいは死の可能性を不当に広げた)と、怒りをぶつけたくなる。社会をつなぐ微妙な絆は、そのようにして毀損されていくのだと思います。
もちろん、感染拡大を防ぐための防疫措置や、感染リスクの高い層の社会的隔離という政策を否定するつもりは全くありません。それらは、疫学者の教えに従って粛々と進めれば良い。ただ、今回の危機で真に問われるべきは、生と死をめぐる倫理の問題だと言いたいのです。あるいは見知らぬ他者との関わり方だと言ってもいい。
少なくとも私は、感染者を槍玉に挙げ、少しでも規律に従わない「私以外の誰か」に過剰な制裁を加える今の風潮が、倫理的に正常な姿とは思いません。はっきり言ってみっともない。われわれが本来持っている道徳心は、そんなものではなかったはずです。
いずれにせよ、今回のコロナ騒動がわれわれに突きつけているのは、疫学を巡る専門的な問題である以上にグローバリズムの問題であり、経済政策の問題であるのと同時に生と死をめぐるわれわれの倫理の問題である。今後、経済危機が進行するにつれて新たな問題が次々と起こるでしょう。その将来に備えるためにも、思想や感情の不要な混乱は、今から少しでも減らしておく必要があると思います。
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