【川端祐一郎】「命の選別」論争の不毛

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教)

先日、大西つねき氏が「命の選別」にまつわる発言で批判を浴び、れいわ新選組から除籍される騒動があった。問題の発端となった動画と除籍後の記者会見をみる限り、大西氏は概略次のようなことを主張している。

(1) 超高齢化社会では医療・介護に多大な人手を割く必要があるが、「高齢者をちょっとでも長生きさせるため」に「若者たちの時間を使う」のは、有意義とは言えないのではないか。
(2) 延命を無条件に正しいとする風潮が支配的だが、人生の最期に生き甲斐のない病院生活が長々と続くのは、幸福とは言えないのではないか。
(3) 「命の選別」は政治の使命であり、どんな政策も広い意味では命の選別に関わっている。
(4) 選別が必要になる場合は、「自然の摂理」に従って、「もちろん高齢の方から逝ってもらうしかない」。

これらのうち、(1)や(2)のような考え(特に後者)はさして突飛なものでもなく、支持する声も実は少なくないのだろう。ただ、具体的な状況や当事者の価値観によるところもあって、過剰な一般化を避けなければならないとは言える。
若者が高齢者の面倒をみることに生き甲斐を感じないと決め付ける必要はないし、延命の判断というのは、『表現者クライテリオン』7月号で森田洋之氏も述べているように、あくまで医師と本人と家族が時間をかけて話し合った末に結論を出すべきものだ。大西氏は、これらの問題に政治家が責任をもって解答を出さなければならないと主張しているのだが、その前にまず国民の価値観や文化のレベルで摺り合わせが足りていないのではないだろうか。

(3)については概ね正しいと言ってよく、間接的なものまで含めれば、多くの政治的決定が強かれ弱かれ「命の選別」に繋がり得るというのはその通りである。たとえば、交通安全対策と感染症対策の予算配分を変更すれば、事故死と感染症死の人数が多少は変わるはずであるし、そもそも国や自治体の予算全体の多寡によっても、人の生死は何らかの形で左右されているだろう。ただ、それらが消極的・間接的な選別に過ぎない点には注意が必要である。多くの政策が広い意味での「命の選別」に当たるのだとしても、それが、直接的な選別を安易に行ってよいことの理由になるわけではない。

そして(4)について、大西氏は強い調子で断定していたのだが、これには私は抵抗を覚えた。大西氏がどのような状況を念頭に置いているかは定かでないのだが、私などはたとえば、中年の息子が老齢の母親に不義理を働くのを繰り返し目の当たりにすれば、息子のほうに先に死んでもらうという選別を心では願うかも知れない。それに、善人ぶりたいわけではないのだが、年長者を差し置いて生き延びる価値が自分にあるなどと簡単に言う気にもなれない。もちろんそんな個人レベルの所感と政策決定は別物であろうが、一方で、それらを安易に切り離すような議論にも私は馴染めない。

戦争や大災害やパンデミックが発生すると、直接的な意味での「選別」が否応なしに必要になることがある。そして、老人よりも子供の救命を優先せざるを得ないような場面は、実際少なくないであろう。しかしそうした選別の「基準」や「手続き」や「責任」のあり方は、かなり複雑な問題であって、「高齢の方から逝ってもらうしかない」というような簡単な理屈で結論を出せる話ではないはずだ。割り切った思考が許されるのは、割り切れない問題について考え抜き、語り尽くした後のことだろう。
ちなみに、大西氏の発言が反感を集めたのは、その断定口調に滲み出る柔軟性の欠如や、若干の自己陶酔を思わせる態度が、多くの人の癇に障ったからだと思われる。この点についてはれいわ新選組の舩後靖彦議員が酷評していたが、私は大西氏の人物評価に関心があるわけではないので深入りはしない。ただ、「言い方」が案外無視できない問題であるのは確かで、あまり大雑把に断定されたのでは、選別の必要を認める人々の間にすら「彼は選別に伴う悔いや哀しみが想像できていないのではないか」と訝る声が出るのも無理はない。
ところで、大西氏に対する批判の声のほうも単純化が過ぎるものが多く、「露悪的な断定」が「偽善的な断定」に変わっただけという印象で、あまり有意義な論争であるとは思えなかった。

れいわ新選組は、「生きているだけで価値がある」「命の価値は横一列」というスローガンを掲げて、大西氏に対する非難声明を発していた。その他の批判者の言い分もだいたい同じで、「命の価値は等しい」のであり、「命の選別をせずに済むよう努力するのが政治家の仕事ではないか」というわけである。そう言いたくなる気持は理解できるが、しかしそんなことを無前提に断言されたのでは、「その等しさはどうやって測ったのか」とからかいたくもなる。

「自分だけは選別の対象にならないとでも思っているのか」という批判に至っては、お笑い種というほかない。過度の延命や命の平等論に異を唱えるような人物は、「自分の命にも大した価値はないかも知れない」ということを当然の前提としている。「俺はいつでも死ねるだけの覚悟が出来ている」というようなセリフはたいてい強がりだと思ったほうがよいが(そして強がりも一つの美徳であって馬鹿にできるものではないのだが)、「お前の命も切り捨てられるかも知れないんだぞ」などと反論して噛み合うわけがない。

また、「高齢者の命を軽くみる主張は、生産性の低い障害者や難病患者は生きる価値がないという優生思想に繋がり得る」というような批判もあった。これは正直、大西氏の選別論を擁護したいわけではない立場からみても酷い拡大解釈である。大西氏は高齢者の生産性を問題にしてはいないし、少なくとも件の動画と記者会見を確認する限り、障害者の命の選別など一言も主張していない。

「高齢者から逝ってもらうしかない」という大西氏の断定は、死生論としては割り切りが過ぎる不気味なものだが、「劣った遺伝子の淘汰」を目指す優生思想に比べれば、ある意味公平とすら言えるところがある。それにもかかわらず、「命を粗末にしている」ことを印象づける便利な方法として「優生思想」のレッテルが貼られているのだから、論争のあり方として雑としか言いようがない。
私は、「差別反対」を掲げる社会運動には大きな意味があると思っている。しかしそれは、命の価値が等しいからではなく、人間が価値判断の難しさを過小評価しがちだからだ。

善良な人には卑劣な輩よりも長生きしてもらいたいと望み、事故や災害が起きれば赤の他人よりは身内の無事を願うのが人間である。宗教的啓示を受けたような人は別かもしれないが、我々はふつう、命の価値が均質に見えるような世界を生きてなどいないのだ。しかし、人格の優劣というのは比較の基準が無数に考えられ、決定的な判断に到ることはそうあるものではない。そして個人の私情が公共的なルールになり得ないことも、言うまでもない。

人間の弱さの一つは、客観的な評価や公共的な決定の難しさを過小評価し、独断と偏見の肥大化を往々にして許してしまうことだ。だからこそ、「おいそれと差別に手を染めてはいけない」という規範は重要な意味を持っている。「命の価値は皆等しい」などという嘘話を信じる必要はないのであって、我々に求められるのは、自らの見識の狭さを直視する謙虚さであり、それを笑えるような心の余裕なのである。
人間は恐らく、命の価値に優劣や軽重を付けずにはいられない。しかし優劣を過不足なく判定する能力など、誰も持ち合わせてはいない。そういう矛盾を抱えた自分たちの弱く小さな姿を、酒場や家庭の会話を通じて確認し合い、できればユーモアへと昇華していくような努力。それこそが、不当な差別や偽善に抗う唯一の方法ではないだろうか。

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