冷却原子を用いた量子多体ダイナミクスの量子シミュレーション ―非局所相関の伝搬の観測とエネルギー保存則の検証に成功―
【概要】
近畿大学理工学部理学科物理学コース 段下 一平 准教授、後藤 慎平 同研究員、京都大学大学院理学研究科 高橋 義朗 教授、高須 洋介 同准教授、独国ハンブルグ大学 長尾 一馬 研究員の研究グループは、原子の量子的な波の伝達を観測し、数値計算と比較する「量子シミュレーション」と呼ばれる研究を行いました。
本研究は、レーザー光がつくる規則正しい格子パターンに原子を閉じ込める「光格子」を用いました。1つの格子点に原子を1つずつ閉じ込め、そこから閉じ込めを急激に弱めます。すると、原子が光格子中を飛び回ります。本研究では、新たに開発した実験手法を用いて、この原子の運動が、非局所相関という形で、量子的な波の伝達の位相成分に相当するものを観測することに成功しました。
また、この量子系では、原子が飛び回ると運動エネルギーと相互作用エネルギーが変化します。各エネルギーを直接測定することにより、その和についてのエネルギー保存則が成り立っていることを実験的に確認しました。エネルギー保存則の量子多体系における世界で初めての実験的な確認です。
これらの非局所相関、エネルギー再分配の両方で、実験結果と理論計算ともよい一致を示しました。
本成果は、2020年10月1日に米国の国際学術誌「Science Advances」にオンライン掲載されました。
【背景】
未来に起こることを正確に予言できるようになると、科学のフロンティアを開拓でき、ひいては人間社会の利便性の大幅な向上につながります。例えば、2016年にアメリカのLIGOで観測された重力波(2017年にノーベル物理学賞を受賞)は、それ以前の解析的な理論や計算機シミュレーションによる予言なしには実現しえなかった成果です。また、気象庁の発表する気象予報や緊急地震速報は私たち現代人の生活に欠かせないものになっています。
精度の高い台風進路予測、将棋界のトップ棋士に打ち勝つソフトウェア、eコマースでの「おすすめ商品」の的確さを目のあたりにするなど、現在の世の中はコンピュータの高い能力を実感する機会で満ちあふれています。ところが、最先端のスーパーコンピュータをもってしても未来の予測が難しいものもまだまだたくさんあります。その一つの例として、量子多体系が挙げられます。量子多体系とは、量子力学に従うミクロな構成要素が多数集まり互いに力を及ぼしあっている物理系のことで、原子や固体中の電子の集団が代表的な例です。エレクトロニクス(電子工学)という言葉が示すように、私たちが日常生活に利用しているパソコンや携帯電話などの電子機器をさらに発展し、ひいては量子コンピュータなどの革新的なデバイスを開発するためには、電子の集団の性質を正確に理解することが非常に重要です。しかしながら、電子集団などの量子多体系の運動はシュレディンガー方程式で正確に記述されること自体は分かっているのですが、以下で述べる理由から、その方程式をコンピュータ(量子コンピュータでない)で解いて未来を予測することは一般的には困難だと考えられています。
具体的に、隣り合う2つの容器を考え、そこに2つの原子を入れるという状況を考えます。隣り合う容器の間で原子が飛び移れるようにすると、図1(a)で示すように、左右の容器に1つずつの状態(左)、左の容器に2つの状態(中)、右の容器に2つの状態(右)の3通りの状態が考えられます。量子力学によれば、一般的な状態というのはこれらの状態がある確率振幅(確率振幅の絶対値自乗が実現確率)で重ね合わされたもので、未来においてそれぞれの確率振幅がどのように変化するかはシュレディンガー方程式を解くとわかります。図1(a)で示した場合のように、系が取りうる状態が3通りだけであれば、コンピュータを使って簡単にシュレディンガー方程式を解くことができます。図1(b)で示す3つの容器に3つの原子を入れる場合は、系が取りうる状態は10通りであり、この場合も問題なくコンピュータで解けます。図1(c)で示す4つの容器に4つの原子の場合(35通り)もまだ解けます。しかしながら、容器の数と粒子の数を簡単のためどちらもNとすると取りうる状態の数は(2N - 1)!/((N -1)! N !)となり、Nが増えると爆発的に増大します。例えば、N=30ですでに状態の数はおよそ6×10^16通りになり、10^17バイト程度のデータ量になってしまいます。これは理化学研究所が開発中のスーパーコンピュータ「富岳」でも扱えないデータ量です。このように、構成要素数が増えると扱わなければならないデータ量が爆発的に増えるという性質のために、量子多体系の正確なコンピュータシミュレーションは現実的には不可能なのです。
厳密な計算が不可能であることから、量子多体系を解析するためにさまざまな近似的計算手法が開発されてきました。これまで、それらの近似法が正しいかどうかの検証は、主に原子が少数の場合に厳密計算と比較することによってなされてきました。しかし、対象とする物理系のサイズが大きいときにはそのような検証は不可能であるため、まだ信頼できる計算結果はありません。また、与えられた初期状態からある時間が経過した後の状態を求めるというダイナミクスの計算は、より難易度があがるため信頼できる手法は未確立です。
しかし、もし十分制御性の高い量子多体系が存在すれば、その実験結果と近似法による結果を比較することで、より精度の高い検証が可能です。現在、話題となっている汎用型量子コンピュータがあれば可能でしょうが、まだまだ実用には程遠い状況です。しかし、汎用性はなくても、うまく設計された量子系があれば、その結果を用いることで、数値計算の検証を十分行うことができます。この手法は量子シミュレーションと呼ばれます。アイデア自体は40年以上前からありましたが、その時点ではそのような都合のよい量子系は存在しませんでした。しかし、冷却原子気体、トラップされたイオン集団、超伝導回路などの制御性の高い量子系を、近年利用することができるようになり、それらを用いて活発に研究が行われています。
【研究手法・成果】
光格子中に、局在したボース原子に対し、光格子を急激に下げて原子を自由に飛び回れるようにし、そこからの系の応答を実験的に研究しました。初期状態は、1サイトに1つの原子がありますが、原子は自由に飛び回れるようになると、1つのサイトに2つの原子がある状態と、原子がない状態が生まれます。
この2つある状態と1つもない状態は、それぞれ相関をもって広がっていきます(図2)。本研究では、この非局所相関の広がりを、独自に開発した手法を用いて、この原子の運動の量子的な波の伝達の位相成分に相当するものを観測しました。これまで、原子数相関を観測した先行研究はありますが、位相成分に相当することができたのは初めてです。
非局所原子相関については、1次元系、2次元系で測定しました。時間とともに相関の値は大きくなりますが、振動しながら一定値に落ち着きます。極大値を得る時間に注目したところ、一定の速度で広がる、弾道的な相関の広がりを観測しました(図3)。1次元系では、量子気体顕微鏡を用いた先行研究がありますが、2次元系では初めての観測です。実験結果は、1次元系では理論計算とよい一致を示していました。一方、2次元系では定性的な一致にとどまりました。こうして、光格子中原子を用いた、非平衡ダイナミクスにおける量子シミュレーションとしての有用性を示すことができました。
また、運動・相互作用エネルギーの再分配についても、独自の手法を開発して研究しました。エネルギーの再分配では、1次元系、3次元系で測定しました。いずれもエネルギー保存則が成り立っていることを実験的に確認しました(図4)。エネルギー保存則は物理学での重要な保存則ですが、量子多体系における世界で初めての実験的な確認です。
今回の3次元の実験系は10000格子点(図1で示した容器のようなもの)に10000個もの原子が含まれるような量子多体系であり、厳密な計算には10^6018個という膨大な数の状態を扱う必要があるため、コンピュータで厳密な計算を実行することが不可能です。そこで、切断ウィグナー近似法という近似的な数値計算手法を用いてシミュレーションし実験結果と比較を行いました。その結果、この近似法がエネルギーの再分配ダイナミクスを非常に高い精度で再現することがわかりました。このような多数の粒子からなる量子多体系のダイナミクスを正確に記述できる近似法を見出したことも大きな成果であると言えます。
【波及効果、今後の予定】
ここで示した研究手法は、ボース原子系だけでなく、フェルミ原子にも利用できる手法です。また、先行研究は、多くの場合は計算方法が確立している1次元で行われています。本研究は、2,3次元での量子シミュレーションを可能にし、実験と理論を比較することができました。2次元系では、本研究の結果を用いて、新たな近似手法の検討が開始されており、この成果が量子多体系の量子シミュレーションの新たな潮流となることが期待されます。
【研究プロジェクトについて】
本研究はJST戦略的創造研究推進事業CREST(No. JPMJCR1673)、文部科学省 光量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP、No. JPMXS0118069021)、内閣府 革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)、および日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤S、基盤A、基盤C、新学術)の支援によって行われました。
<研究者のコメント>
高温超伝導体をはじめとして、まだ振舞いがよく分かっていない量子多体系は多く存在します。その理由のほとんどは、量子多体系ではコンピュータを用いた計算は近似計算に頼る必要があり、信頼性の高い結果を得ることが難しいということが挙げられます。そのような「よくわからない」量子多体系をよく理解するには、計算手法をより信頼性の高いものにしていく必要があります。本研究は、その一歩となると信じています。
<論文タイトルと著者>
タイトル:Energy redistribution and spatiotemporal evolution of correlations
after a sudden quench of the Bose-Hubbard model
(ボース・ハバード模型のクエンチ後のエネルギー再分配と
相関の空間時間伝搬)
著 者:Yosuke Takasu, Tomoya Yagami, Hiroto Asaka, Yoshiaki Fukushima,
Kazuma Nagao, Shimpei Goto, Ippei Danshita, Yoshiro Takahashi
掲載誌 :Science advances DOI:10.1126/sciadv.aba9255
【関連リンク】
理工学部 理学科 准教授 段下 一平 (ダンシタ イッペイ)
https://www.kindai.ac.jp/meikan/2161-danshita-ippei.html